未来人「少し先の未来で、待ってるから」

2019年05月12日
未来人「少し先の未来で、待ってるから」

1: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 19:52:46.65 ID:Nr4cjnOQ0
 未来人と出会ったのは、転校した次の日だった。

 小6で転校なんてして、修学旅行が不安だな、馴染めるかな、と可愛げのある悩みを抱えながら教室のドアを開けた私の目に、
 教卓の上に体育座りをしていた女の子が映った。

 深く透き通った青の香り。

「初めて見る顔だ」

 彼女は整った顔だけをこちらに向けて、独り言のように言った。

 長い髪がさらりと揺れる。青く見えてしまうほどに深く黒い髪。綺麗だった。

「転校してきた」

「ふぅん」

 わたしが昨日教えられたばかりの自分の席に着くと、彼女はぶらんと、細くて白い両足を教卓からぶら下げた。

「宇宙人っていると思う?」

 透き通った声だった。

「いないと思う」

 そう答えると、彼女は可愛げのない顔でそっぽを向いた。

「なら、未来人は?」

「それは、いると思う」

「ふぅん」

 そっぽを向いたまま、彼女はどうでもよさそうに喉を鳴らした。

 面白い子だな、と思った。




2: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 19:55:26.59 ID:Nr4cjnOQ0

「わたしは未来から来た」

 自称未来人の彼女は、私によくそう話していた。

 なんでも、数百年後の未来から、何か使命があってやってきたらしい。なんの使命があるのかは教えてくれない。

 でも普通に両親はいるようだった。

 この未来から来たという設定(?)は、小学生の頃だとふわふわとしていて、聞くたびに変わっていたような気もするけど、中学生になったあたりから、彼女の中で設定が固まるようになる。
 未来の道具や、今はまだ使われていない言語なんかについても聞いたことがあった。

 一度だけ、未来の言葉を聞かせてもらったことがあったけど、私には残念ながら聞き取れなかった。
 未来人ともなると、耳や舌の構造は変わってくるらしい。
 何度か舌を見せてもらったことがあるけど、特別変わったところは見受けられなかった。

 ただ、あっかんべをしても綺麗な顔だったことはよく覚えている。

 ……話を戻す。

 当時小学生だった私たちは、そんな話ばかりしていたせいか、周りに人が多い方ではなかった。
 少なくとも、私はそう思っている。

 未来人は、話を続けたくないと思うと、すぐに「ふぅん」と言って空を見る。
 私が転校してくる前から、彼女と根気よく話そうとする人は多くはなかったようだった。

3: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 19:56:16.26 ID:Nr4cjnOQ0
 未来人は、頭が良かった。

 と言うよりは、見たこと聞いたことをすぐに覚えていたようだった。

 彼女はサボり癖がある。

 高校に入ると私もちょくちょく授業を抜けるようになるので、あまり人のことは言えないが、それでも、彼女は普通の人生の3倍は授業をサボっていた。
 当時は、恐怖の代名詞であった先生にばれることを全く顧みない未来人に、畏怖の念を覚えたりもしていた。

 小6の夏休みに入るひと月前、未来人は、直前の4日くらいしか学校に来なかった。……にも関わらず、テストはほぼ全て満点だった(国語は平均だった)。

「あの紙の本読んだから、書いてあるし」

 物珍しさで読んでいたら、自然と覚えたそうだ。

 彼女の設定では、未来には紙の本などは存在しないらしい。これは初めから固まっていた設定の一つだった。

 そういえば、私はまともに授業を受けている未来人を知らない。

 授業中に彼女の方を見ると、たいてい、頬杖をついて、窓から空を見上げている。

「雲の形って、200年周期で同じものが流れてくるんだよ。人間が生まれる前に、プレアデス星人がプログラミングしたの」

 彼女の中で、プレアデス星人というのは後になっても活躍する、進んだ文明の持ち主だった。

4: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 19:57:37.17 ID:Nr4cjnOQ0
 少し私の話を挟む。

 言っておかなければ、後から紛らわしいことになってしまうので、先に言葉として伝えておく。

 私は人を、匂いの色で覚えていた。
 と言うより、全ての匂いを色で感じていた。

 これがあまり多くはない特技だと知ったのは、中2になってからになる。

 特に、人の匂いははっきりと感じやすくて(例えるなら、人混みの中でも自分の名前が聞こえるように、雑多な匂いの中でも人の匂いだけはしっかりと確認できる)、
 朝早くに教室に来ると、扉を開ける前に、ほぼ必ず群青色の香りがした。

 未来人は、群青色の香りだった。

 でも当時は「群青色」なんて言葉は知らなかったので、私は「黒っぽい青」と呼んでいた。

 未来人と私は、休み時間に、次に誰が教室に入ってくるか当てる、という遊びをよくしていた。
 未来人は「少し先の未来も見える」と言っていたが、当たった回数は私の方が多かった記憶がある。

「未来は不規則に分岐しつつある」

 負けるたび、未来人は青いほど黒い髪を指に巻いて、そっぽを向いてそう呟いていた。

 ……一度だけ、確実に私が予想できず、彼女には当てられたことがあった。
 カブトムシが入ってきた時だ。

 どうやったらそんなことまで予想できたのかは、私にはわからない。

5: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 19:58:37.80 ID:Nr4cjnOQ0
 未来人は、物を移動させるマジックが得意だった。

 彼女は「ザヒョウヘンコウ」と呼んでいたけど、初めてそれを聞いた私たちには、それは難しすぎたので、単に「ザヒョウ」と呼んでいた。

 一度、「ザヒョウ」を目の前で見たことがある。
 中村が学校に来る前にたまたま捕まえたカブトムシで、それは行われた。

 見ていたのは、中村と、川田と、岡西と、私だった。

 私は、川田のお気に入りのヘアピンの話を聞いていたら、珍しく未来人が放課後に活動を始めたので、少し驚いていた。

 川田はよく飼育小屋のにわとりに餌をあげてる、おとなしい女の子だった。

 岡西は小学生のくせに高そうなカメラを持っていて、その日は偶然カメラを持ってきていたので、

「決定的シュンカンを撮る!」

 と鼻息を荒くしていた。

 私たち3人が机を囲むと、彼女はカブトムシを白い両手で包んだ。

「つぶすなよ、おれのカブトムシ」

 中村は涙目になっていた。

 未来人がなかなか手を開こうとしないので、四人でうずうずとしていると、彼女は突然窓の方を見た。

「あ、UFO」

 私たちはつい窓を見てしまい、慌てて目線を戻すと、既に彼女は両手をパーにしていた。

 そして、そこにカブトムシはいなかった。

「おれのカブトムシ」

 中村は悲しそうに言った。

 岡西は、カメラで撮れなかったことを悔しがっていて、川田は、お気に入りのヘアピンを手の中で弄りながら「すごー」と言っていたけど、
 私は、どうせマジックか何かだろうな、と思った。

 カブトムシは2、3分もするとどこからか帰ってきて、中村を元気付けていた。

6: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 19:59:30.38 ID:Nr4cjnOQ0

 本題に入ろう。

 10月ごろ、あるウワサが小学校で流行った。

「帰り道に、小学生みたいな顔したおじさんがいて、見つかると肉団子にされる」

 未来人はこのウワサを聞くと、すぐにこう言った。

「それは、プレアデス星人が人間を改造して生まれたミュータントだよ。人間の進化系」

 みんなは、そんな話より、見つかるとすごい速さで走ってくる、だとか、声は女の人、だとか、顔は毎回違う、だとか、そんな話で盛り上がっていた。

 私は肉団子スープが好きだったので、このウワサは嫌いだった。

 そしてその日に限って、晩ごはんは肉団子スープだった。

 玄関を開けると、美味しそうなにおいがする。嬉しさ半分、複雑な気持ち半分だった。

 おかわりをしなかったので、お母さんは「何かあったの?」と尋ねてきたけど、私は「なんでもない」と答えて、リビングでテレビを見ることにした。

 つまらないお笑い番組を見ていると、夜だというのに、家に電話がかかってきた。
 お母さんが受話器を取って、しばらく話を聞いた後、マイクの部分を抑えて私に聞いてきた。

「川田さえちゃんって子、今日一緒に帰らなかった?」

 私は、帰りは知らない、と答えた。

 その夜、川田は行方不明になっていた。

7: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:00:43.31 ID:Nr4cjnOQ0
 次の日、川田はあっけなく発見された。

 学校の近くにある、誰も住んでないアパートの真下にいたらしい。
 でも、見つかったのは、首と胴と足だけで、両腕はどこにもなかった。

 またたくまにその話は広がった。

 私は、怖いなぁ、と感じた。

「あのおじさんに食べられたんだ」

 肉団子にされるのでは? と思ったけど、みんなはそんなこととっくに忘れていて、今度は手足をもいで自分のものにする妖怪、という設定になっていた。

 さわがしい中、ひときわ大きな声が教室に響いた。

「知ってるか? 人って、飛び降りたら手と足がふっとぶんだぜ!」

 それを聞くと、男子はすげーと呟き女子は怖がり、中には泣き出す子もいた。

 学級委員長で女子のリーダーでもある山田が彼を責めると、彼は一気に勢いを失った。

 私は黙って立ち上がると、そのまま静かにトイレに向かい、個室に駆け込み、胃の中のものを吐き出した。肉団子。

 のどが異様に広がって、胃液でピリピリと痛かったことを覚えている。

 激しい嘔吐感とめまいに耐えていると、いつのまにか、後ろに未来人がいた。

「あれは、人間の進化系だから、見ちゃうと、本能的に死ななきゃ、って思うんだろうね。早く生まれ変わるために」

 私は、その綺麗な声に、フキンシンだな、と思った。

8: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:06:34.13 ID:Nr4cjnOQ0
 次の日、学校に行く途中、水の通っていない乾いた排水路で、犬か何かの骨を見つけた。
 普段ならなんともないのに、その時は血の気が引いた。

 その場でしゃがみこんでいると、山田が「大丈夫?」と声をかけてきた。

 通学路が同じだったことを、その時初めて知った。

「ううん、なんでもない」

 私は答えた。

 そしてその日、朝の会に、先生が少し遅れてきた。
 顔色が悪かったので、具合でも悪いのかな、と思っていると、先生は突然泣きながら、廊下に出て行ってしまった。

 山田や何人かが先生を追いかけていって、教室がざわついた。

 未来人の方を見ると、彼女はポツリと、

「昨日騒いでたあの男子、死んじゃったんだ」

 あの男子は、そういえば今日は来ていなかった。

「ミュータントも、お腹すくんだ」

 その後に来た校長の話によると、どうやら男子が死んでしまったのは、本当らしかった。

9: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:08:56.61 ID:Nr4cjnOQ0
 その日の放課後、未来人は教卓の上で体育座りをして、ぼーっと空を見上げていた。

 私は、窓際の席に座って、窓の真下にある、農具倉庫の屋根を眺めていた。

 ……後から考えると、あの時座っていた席、川田の席だった。

 トタン屋根って、どれくらい薄いんだろう、なんて考えていると、急に廊下から薄はい色の匂いがした。岡西だった。

「あの化け物、撮った!」

 岡西はまっすぐ私に歩いてきて、カメラを突きつけてきた。
 私はそれを受け取った。

 ムービーが流れる。学校の近所だ。

「カメラの画面だけ見て歩くの、好きなんだ」

 岡西も友達が少なかった。

 カメラは岡西の通学路を進む。特に変哲もない映像が続いた後、画面の端、塀ブロックの角から、何か影が見える。

 そこでカメラはUターンし、映像は終わった。

「ほら! 見たか!」

 岡西はもうカメラを操作すると、さっきの動画の最後のシーンで一時停止をした。

 確かに、塀ブロックの角から見える影は人影に見えなくもなしい、身長の割に頭が小さい気がしないでもない。

 でも、岡西のテンションがなんだかうっとおしく感じた私は、

「別に、普通」

 と答えた。声は震えていた。

 昨日の、未来人のフキンシンな話を思い出して、そこで初めて群青色が香らなくなっていることに気づいた。

「私、帰る」

 教室には、私と岡西しかいない。

 黒いランドセルを背負うと、私は早歩きで教室を出た。


10: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:12:05.24 ID:Nr4cjnOQ0
 翌日は、たしか、朝早く起きたか何かで、早い時間に家を出た。

 一昨日と昨日のこともあり、あまり明るい気分ではなかった私は、いつの間にか、早足になっていた。
 私は、嫌なことがあると早足になる癖がある。

 学校に着くと、正門の隣にある体育用具倉庫が開いていた。
 中を覗くと、高飛び用か何かのクッションの山が崩されていた。
 倉庫の土埃とカビの匂いが、あまり気持ちよくはない色で私の頭を染めるので、私はすぐに倉庫から顔を背けた。
 少しだけ群青の香りがした気がした。

 そのまま下駄箱に向かう。

 途中、さっきよりもはっきりと群青が香って、ふいと振り返った。

「なにしてるの?」

 目に映ったのは、農具倉庫から出てくる未来人だった。
 私が声をかけると、まるで私が声をかけることを知っていたかのように、自然に、彼女はこちらを向いた。

「ちょっと、今日の準備」

 なんの準備かは教えてくれそうになかったので、私は「へぇ」と答えた。

「私は、目が覚めたから早く来た」

「ふぅん」

 未来人は興味なさそうに自分の髪を撫でると、下駄箱とは反対方向へと歩いて行った。

11: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:13:32.32 ID:Nr4cjnOQ0
 放課後、私は日直だったので、花に水をやるために一人で教室に残っていた。

 珍しく、未来人はいなかった。

 百均で売ってあるような安っぽいジョウロに水を入れて、ピンク色の花に水を注ぐ。
 花びらから水があふれる。

「誰かいますんかー」

 廊下から川田の声がしたので、「はーい」と返事をしてから、

 ジョウロを握る手から力が抜けた。

 川田?

 川田はたしか、おととい。

 頭が混乱する、ジョウロからあふれた水で、青色の上靴が水に濡れる。
 靴下に染み込んでくる気持ちの悪い水道水に気を配ることもできず、
 ただ、廊下へつながる扉を睨むように見つめる。

 匂いが見える。

 焦げた紫色。川田の匂いは緑だったはず。こんな気持ちの悪い色ではない。川田じゃない。でも川田の声。けど違う色がはっきりと見える。

 近づいてきている。返事をしてしまっているから。

 居場所はバレている。逃げないと。

 でも出口は廊下しかない。足音が扉の前で止まった。

12: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:14:49.34 ID:Nr4cjnOQ0
「だれかあ、けてー」

 扉に何かをぶつける音がする。
 建てつけの悪い教室の扉が、音を立てて揺れる。まるで怒られているようだった。

 喉から、ヒュッ、と、聞いたことのない息が漏れる。

「あけてあ、けてあぇー」

 聞き覚えのある声で、でも聞き覚えのないイントネーションで、焦げ紫のそれは扉を揺らし続ける。
 次第にそれは強くなって行って、振動するたびに、ミシミシと音を立て始めた。

 ふと、思い出す。

 川田は、腕が見つからなかったらしい。

 私たちは、腕で扉を開ける。なら、もし腕がなかったら?

 そこまで考えたところで突然、焦げ紫の何かは、扉を叩くのをやめた。

 足音が遠ざかる。

 物音が急にしなくなって、扉はしんと大人しくなった。

 安心して膝から崩れ落ちそうになって、力を入れようとすると、

 次の瞬間、大きな物音と共に教室の扉がこちらへ倒れこんできた。その背中に大きな塊を載せている。

 私はそこで初めて、人間の舌は驚くと喉に詰まるのだ、ということを知った。

 塊が起き上がる。
 焦げ紫。顔を見る。川田だ。でも顔だけだ。体格は成人男性の一回りは大きい。

 腕はあった。

 でも、私はそれを見てすぐ、急がないと、と感じた。

 それから、死ななきゃ、と思った。

 逃げないと、と考えたのはその後だった。

 私は転がるように焦げ紫の川田に背を向けて、走り出そうとして、その場に転んだ。

 プラスチックの割れた音がする。

 すぐに起き上がって、そのまま廊下側ではなく、窓側(……今となっては、どうしてそう判断したのか理解はできないけど)へ全力で走り、そして、気がつくと、

 2日が過ぎていた。

13: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:15:41.29 ID:Nr4cjnOQ0
 それからしばらくは、かなり慌ただしかった覚えがある。

 まず、目覚めた瞬間から、左手首と右脚の痛みに震えた。

 関節の内側から炙ったまち針を突き刺しているような鋭い痛みに、厚い板で押しつぶされているような鈍痛。

 次に、ギブスで固められていることにパニックになり、暴れようにも体が動かせず、一人で泣きそうな声を漏らしていた。

 看護師に気づかれると、慌てて医者を呼びに行かれ、それからまるで面接のような雰囲気で質問(検査といったほうが正しいかもしれない)を受けた。

 やつれたお母さんが泣きそうな顔で病室に入ってきたときは、申し訳ないことをしたな、と反省した(なにを反省したのかは覚えていない)。

 結局私は、あのあと、3階の窓から農具倉庫に飛び降りたらしく、右脚を骨折、左手首を捻挫していた。

 本来ならば、トタン屋根を突き破って、そのまま農具か何かに突き刺さって命に関わる怪我をしてしまっていてもおかしくなかったそうなのだけど、
 その日に限っては、たまたま誰かがイタズラで、高跳び用のクッションを農具倉庫に隠していたらしい。
 農具は農具倉庫のそばに重ねて置いてあった。

 私はそれで一命を取り留めていた。

14: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:17:11.85 ID:Nr4cjnOQ0

 その後、私は2日入院して、外傷以外は特に異常はないとのことだったので、普通に学校に通うことを許可された。

 正直なところ、許可されなくても別に良かったのだけれど、お母さんをこれ以上心配させるわけにはいかなかった。

 ちなみに、私が眠っていた間、中村があの化け物を見てしまったらしい。
 が、たまたま近くにいた警察官のお兄さんに、様子がおかしかったところを見つかり、我に帰ったそうだ。
 特に襲われたりはしなかったようなので、化け物の方は気づいていなかったのかもしれない。

 朝早くに教室に入ると、その日も未来人は教卓の上に体育座りをしていた。
 青いほどの黒髪が綺麗だった。

 ジョウロを踏み壊してしまった覚えがあるので、新しいのに変えておかないとな、と思っていたけど、棚を見ると、既に新品のものに変えてあった。

「ありがとう」

 松葉杖をついて、未来人の方を見る。

「未来のギジュツで直しておいた」

 ジョウロを持ち上げる。

 裏側に、百均の値札が貼ってあった。

15: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:18:38.84 ID:Nr4cjnOQ0
 放課後、最後まで教室に残っていたのは、未来人と私だった。

 私は少し迷ってから、教卓に座る未来人に質問を投げた。

「ねぇ、ウワサの化け物って」

 私は自然にアレのことを「化け物」と呼んでいることに少し驚いたけど、そのまま続けた。

「何か知ってる?」

 未来人は私の方は見ずに、空を眺めたまま、「はぁ、まぁ」ゆっくりと頷いた。

 少し間をおいて、彼女は教卓から飛び降りた。音がしなかった気がする。

「たぶんね、私を連れ戻そうとしてるんだよ。あのミュータ……化け物は。見た目も、がんばって人間っぽくしてるみたいだし」

 ミュータントより、化け物の方がしっくりときたらしい。私は少し嬉しかった。

「でも、私は帰る気はないし」

「なら、どうするの?」

「やっつける」

 未来人はそう言うと、くるりと体を廊下側に向け、そのまま歩き出した。

「私も、何か手伝える?」

 松葉杖をついて椅子から立ち上がると、彼女はゆっくりと振り返りながら、

「変わってるね」

 と私の目を見た。

「そうでもないよ」

「ふぅん」

 彼女はそのまま歩き出した。

 私は慣れない松葉杖で階段まで向かって、どうやって降りよう、と考えていると、階段のところに未来人がいた。

 降りるのを手伝ってくれた。

16: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:19:38.00 ID:Nr4cjnOQ0
 その日の夕方、家で昨日の晩ご飯の手羽先をおやつ代わりに食べていると、山田から電話がかかってきた。4時過ぎだった。

「木の公園に来れる?」

 お母さんに、木の公園で遊んできてもいいか、と聞くと、にやにやと頷いたので、私は手羽先の骨をゴミ箱に捨ててから、車で近くまで送ってもらった。

 木の公園には、山田と、それから中村と、岡西がいた。

「なんか、キンモクセイの写真撮ってたら、二人が来たから」

 高そうなカメラを首から下げていた。

 せっかくなら、と岡西も参加することにしたらしい。……何に?

「作戦会議よ!」

 山田は張り切っていた。

 中村は燃えていた。

「ウワサのあのおじさんは、本当にいたのよ!」

 例の岡西が撮影した動画を、山田も見せてもらったらしい。私がちらりと岡西を見ると、岡西は得意顔で頷いていた。

「警察は動かないし、先生も捕まえようとしないし、だったら!」

 大人ではなく、私たち子供でおじさんをタイホする、という作戦らしい。

「おれも、なんか危ないことになってたし」

 中村は山田の作戦に乗り気のようだっだ。

「タイホする前に写真とってもいい?」

 岡西も参加するようだった。

「なら、私も」

 私は平均的な日本人だった。

17: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:27:55.36 ID:Nr4cjnOQ0
 山田が立てた作戦はこうだ。

 まずはクジで2人組に別れて、おじさん、もとい化け物を探す。小学校のあたりでしか見つかっていないので、校区内から出てはいけない。

 もし化け物と出会って、様子がおかしくなってしまったら、お互いの頬をビンタして、意識を保つ。
 その後は山田が用意した道具でおじさんをタイホする、という作戦だった。

 山田が用意した道具は、手袋、タコ紐、針金、スコップ、それから手錠だった。
 手錠は百均で売っているおもちゃだったけど、鍵がないとなかなか外れなくて、馬鹿にはできないものだった。

「スコップは何に使うの?」

「武器」

 化け物との戦闘も作戦に組み込まれていた。

 クジを引くと、岡西と中村、山田と私のペアになった。
 ひとまず今日は、5時になるまで辺りを捜索して、何もなければそのまま家に帰る、ということになった。3人ともそれで頷く。

「なら、もし捕まえたら、私の家に電話して!」

 今思うと、本当に危ないことをしていたな、と思う。

18: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:30:32.56 ID:Nr4cjnOQ0
 といっても、私は早く歩けないので、山田に手伝ってもらいながら、家の近所を散歩するだけの形になった。

「おじさんって、どんな見た目だった?」

 山田はあのぼんやりとした映像しか見てなかったので、詳しい見た目は知らなかったそうだ。

「えーと」

 正直に話すのは気が引けたので、よく覚えてない、と答えた。

 でも、私のまぶたの裏には、はっきりと川田の顔と、焦げ紫の匂いがこびりついていた。
 つい早く歩きそうになる。

「ごめん、気持ち悪いなら、無理して思い出さなくてもいいよ」

 山田は少し申し訳なさそうに、私から荷物を受け取った。

 いつの間にか、怖い顔をしてしまっていたようだ。
 頭から、焦げ紫が離れない。

 隣にいる山田は、いつも女の子らしい桜色の匂いがするのだけど、なかなか焦げ紫が離れようとしない。

 少しよろけたふりをして山田に顔を近づけてみたけど、山田が少し驚いただけで、桜色の匂いは焦げ紫に負けてしまった。

19: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:33:44.15 ID:Nr4cjnOQ0

 私はなんとなく、山田に、

「なんか、変な匂いしない?」

 と聞いてみたけど、山田は、

「えっ、毎日お風呂はいってるよ?」

 と答えただけだった。
 そう言う意味ではなかったのだけど。

 人の匂いの色はそれぞれ違うけど、日によって少しづつ変わったりはする。
 汗をかいた日は、もちろん違うし、具合が悪かったりしても違ってくる。

 でも、山田の言うように、風呂に入れば、たいてい余計なものは流れるので、匂いの色は元に戻る。

 匂いを受け取る私自身もそうで、匂いが強烈な食べ物(納豆とか)を匂ってしまうと、その日1日は鼻の調子が悪いけど、風呂に入るか、寝さえすれば、たいてい元に戻る。

 次の日に同じものを匂ったりしない限りは、なかなかその色を思い出せるものではない……

「……あ」

 ……そこまで考えて、私は血の気が引いた。

 足元には、排水路があって、そういえば何日か前、ここに骨が落ちていた。

 川田は腕がなかった。なんで?

 飛び降りたから? それなら近くで見つかるはず。
 ならどうして。

 誰かが持って行ったのだとしたら?

 どうして川田は飛び降りた? 自殺するような子ではなかった。化け物を見てしまったからかもしれない。

 化け物はそれを見ていた? なら、腕を持って行ったのは。

『ミュータントも、お腹すくんだ』

 私はさっき手羽先を食べて、それから骨を捨てた。

 骨を捨てた。

20: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:34:55.41 ID:Nr4cjnOQ0
 恐る恐る足元を見る。
 排水路。今日はフタが閉まっていた。でも何日か前、ここには。

 骨が捨てられていた。

 この道を、化け物は通ったことがある。

 つまり。

「……焦げ紫の匂いがする」

「え?」

 山田はきょとんと首を傾げたが、私は全身から嫌な汗が噴き出していた。
 こんな季節なのに、シャツが肌に張り付くのを感じる。

「反対側に行こう」

 今、会ってはいけないと思った。

 焦げ紫は強くなっている。

 私は山田の腕を無理やり掴んで、転がりそうになりながら、その二の腕をひっぱった。
 少し強い力で回れ右をする。

「え、ちょ、どうしたの?」

「こっちにはいないよ」

 焦げ紫は濃くなっている。

 山田は少し戸惑っていたけど、私の尋常じゃないこめかみの汗を見て、少し怯えたようで、黙って付いてきた。

 なるべく自然に歩いているつもりだったけど、後から聞くと、その時の私は松葉杖の割には異常に早歩きだったらしい。

 その後、サイレンが鳴るのを今か今かと待って、山田の家の前で別れた。
 山田は「また明日」と言って玄関に消えていった。

 その日は風呂に入るまで、気が気ではなかった。

21: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:36:27.94 ID:Nr4cjnOQ0
 次の日、未来人に尋ねた。

「なんで、うちのクラスの人ばっかりが、あの化け物に出会うの?」

 未来人は、跳び箱の上に体育座りをして、木でできた格子小窓から空を見上げながら答えた。

「私とよく出会うからじゃない?」

「どういうこと?」

「化け物は私を連れて帰りたい。私の粒子が付いている人間を探す。同じクラスだと粒子がつきやすい」

 私は、また粒子とかなんだとか始まった、と思ったけど、匂いみたいなものか、と思って、そのまま話を聞いていた。

「だから私は授業を休むの」

「それ、サボるって言うんだよ」

「ふぅん」

 私は、埃っぽい体育倉庫の中でも、はっきりと群青色を感じていた。

「なんで今日は体育倉庫なの?」

 放課後、未来人に話を聞こうと思っていたら、終わりの会が終わってすぐ、彼女はどこかに消えていた。
 まだ新品の教室の扉も、帰りの会を終えてから、開いていなかったのに。そもそも帰りの会をサボっていたのかもしれない。

「この倉庫を使って、化け物をやっつける」

 未来人は独り言のように呟いた。

22: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:37:21.88 ID:Nr4cjnOQ0
 ちょうど呟いたのと同時に、体育倉庫のシャッターが開けられた。

「誰かいんの?」

 岡西だった。後ろに山田や中村もいる。
 山田が不思議そうに尋ねてきた。

「こんなところで、何してるの?」

「作戦会議」

 私が未来人の方を見ると、彼女はいなくなっていた。

「1人で?」

「ううん、さっきまで未来人がいた」

 まだ群青の色がする。

 私が右手で跳び箱の蓋をめくると、中には小さく体育座りをしている未来人がいた。

「やあ」

 3人は未来人を見て、首を傾げた。

23: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:38:40.21 ID:Nr4cjnOQ0
「私たちも協力したい!」

 私が未来人と話していたことを伝えると、山田が目を輝かせて跳び箱の上に立った。

 隣の跳び箱では未来人が体育座りをしている。

「でも、やっつけるって、どうやるんだ?」

 中村がバスケットボールをその場でドリブルしながら、普通に尋ねた。

 未来人は独り言のように答える。

「この倉庫を使うの」

 岡西は小窓から差し込む光をカメラで撮影していた。

「倉庫を使うって言っても、さすがに燃やすとかは無理でしょ?」

「そりゃ、閉じ込めて誰か呼ぶ、とかじゃないの」

 こういうとき、中村は誰よりも冷静に物事を考えられる人間だった。

 未来人は中村を一瞥して、それから小窓に目を移した。

「この体育倉庫に化け物を閉じ込めて、この倉庫ごと、ザヒョウヘンコウする」

 何言ってるんだ、と私は思った。

24: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:39:34.17 ID:Nr4cjnOQ0

 そこで初めて、私は会話に口を挟んだ。

「でも、マジックはタネがあるからできるんでしょ?」

 未来人は、珍しくすぐに返事をよこした。

「未来に送りつけるから、大丈夫だよ」

 彼女の目があまりにも綺麗な目だったので、私は、何故か「なら大丈夫か」と納得してしまった。

 まあ、冷静に考えても、閉じ込めさせすれば、なんとかする手段を考えていたのだろう。

「なら、どうやってここに閉じ込めるか、ね」

 山田が跳び箱の上で、腕を組んで「うーん」と悩ましげな声を出す。

「誰か囮になればいいんじゃね」

 中村はさらりと言ったが、私は少し反対だった。

「死んじゃったらどうするの?」

「死ぬ前に、誰かが起こせばいい」

「でも」

 私が反論しようとすると、岡西がこちらを振り返った。

「直接見なければ、平気なんでしょ?」

 未来人はこくりと頷く。

「たぶん平気。付いてこさせればいいんだから、囮作戦もできると思うよ」

 そうか、ならいいか、と、私は納得した。
 未来人の言葉には、不思議な説得力がある。

25: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:40:38.90 ID:Nr4cjnOQ0
「ところで、その化け物はどうやったら見つかるんだろう?」

 山田は、またしても腕を組んで悩んでいた。

「それについては」

 未来人が足を伸ばした。
 白い脚が小窓からの光に照らされる。

「この中なら、ツインテールのキミが囮になればいい」

 ツインテールの山田は、「わたし?」と首を傾げた。

 未来人は足を伸ばしたまま続ける。

「他のみんなは、もう出逢っちゃってるから、化け物は、ハズレだ、せいぜいご飯にしかならない、って知ってる。
 でも、ツインテールはまだ出逢ってないでしょ?」

 山田はこくんと頷いた。

「でも、おれも見つかってはないよ。カメラで見ただけ」

 岡西がカメラを掲げる。

「それだけ近づいても見つからないってことは、たぶん、たまたま私の粒子がちょっとしか付いてなかったんだよ」

 だから、この中だと、山田しか囮に使えない、ということだった。

26: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:41:15.89 ID:Nr4cjnOQ0
「なら、作戦は、わたしが囮になって、化け物を引きつけて、体育倉庫に閉じ込めて、ザヒョウする、って流れね?」

 未来人は頷いた。
 こんな場所でも、長い髪が綺麗だ。

「でも、山田はどうすんだよ」

 中村がバスケットボールをカゴに投げた。

「囮をするにしても、見ない限りは付いてきてるかどうかわかんないだろ?」

 それを聞いた未来人が、静かに私を見た。私は頷く。

「それは、大丈夫。近くにいるのがわかったら、私が合図する」

 近くに来たらわかるんだ、と、3人に伝える。

「なら、わたしと一緒に来てくれれば、近くに化け物がいるのがすぐにわかるのね」

 山田が少しホッとしたような顔をしたのが、印象に残っている。

「なら、おれも行く。2人だけだと不安だし」

 中村も来ることになった。

「ならおれも……」

 岡西がそう言いかけたところで、未来人が遮った。

「ちょっとまって」

27: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:43:25.33 ID:Nr4cjnOQ0
 視線が未来人に集まる。

 彼女は跳び箱の上で再び体育座りをして、独り言のように言った。

「作戦は人に見られたらいけないから、夜になる。だから、どこの門も閉まることになる」

 言われて初めて気づいた。うっかりしていた。

 夜になると、東、西、南方面にある門は、すべて人が入れないように閉まってしまう。北に至っては、ブロック塀で覆われていて、入り口になる隙間すらない。

「どうするんだ?」

 小学生5人くらいなら、門を乗り越えるのは簡単だ。
 でも、化け物を敷地内に入れなければ意味はないので、どこかの門は開けなければならない。

「でも、門を開けてる間に追いつかれたら」

 3人とも食べられてしまうかもしれない。

 誰も携帯なんか持っていないので、事前に連絡もできない。

「だから、カメラマンに屋上から見張っててもらって、どの方向から来るか、合図をもらう。
 そうすれば、来る前に門を開けられる」

 山田が尋ねる。

「でも、顔を見たら、そこから飛び降りてしまうんじゃ」

 岡西はそこで頷いて、

「それなら大丈夫」

 カメラを構えて、自信ありげに頷いた。

28: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:44:42.21 ID:Nr4cjnOQ0

 その夜、私はこっそりと家を抜け出した。

 ……といっても、右脚と左手がうまく使えないので、物音はガタンガタンと鳴っていた。

 外に出て、玄関から家をしばらく見守る。

 親が起きてきた気配はしない。

「みんなの親のことなら、私に任せて」

 未来人は、さっにの帰り際にそう言っていた。
 まあ、またマジックか何かだろう。

 私は特に深く考えず、学校に向かった。

「こんばんわ」

「こんばんわ」

 途中、山田と中村に出会って、歩くのを手伝ってもらった。
 中村は動きやすそうなジャージだったけど、山田は私服だった。

 学校に着くと、正門の隙間からギリギリ入れたので、私たちは思ったよりも簡単に夜の学校に侵入できた。

 普段から見慣れてるはずなのに、月明かりに照らされている校舎は、まるで魔王の城のようだった。

29: ◆zsQdVcObeg 2017/02/03(金) 20:45:22.89 ID:Nr4cjnOQ0
 午前2時。

「丑三つ時だ」

 中村が少し震えた声で呟いた。

 不思議なことが起こってもおかしくない時間。
 私は少し怖かったけど、岡西は何故か楽しそうだった。
 岡西は満月と校舎をカメラに閉じ込めている。

「なら、準備をしておくから、キミたちは化け物を連れてきて」

 未来人は、いつも通りの制服姿で、体育倉庫のカギをくるくると回していた。
 どうやって持ってきたんだろう。

「岡西はどうやって屋上に登るの?」

 山田が尋ねると、未来人は夜空を見上げながら答えた。

「ザヒョウヘンコウする」

 私は、どこかのカギを、昼間のうちに開けておいたんだろうな、と思った。

「じゃあ、すぐ連れてくるから」

 5人で顔を見合わせて、頷いた。

 未来人がこちらを振り返る。

「待ってるから」

34: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:33:36.80 ID:VUzEAQad0
 まずは、中村が化け物と出会った、という場所に向かってみた。

「そこの駄菓子屋の前なんだけど」

 昼間は子供が集まって騒がしい駄菓子屋も、夜はまるでテレビの音量を0にしたように静かになっていた。
 まるで時間が止まってしまっているよう。

「どう? 近くにいる?」

 私は深呼吸した。

 夜の冷たい空気が鼻の奥を冷やす。無駄なものが混じっていない空気。

 焦げ紫は見えない。

「近くにはいないみたい」

 3人は駄菓子屋を後にした。

 次に近かったのは、川田が見つかったアパートだった。

「やめとく?」

 中村が山田と私に尋ねる。

「いや。行ってみよう」

 少し怖いけど、居そうな場所は片っ端から探してみないと。
 私たちはアパートに向かった。

35: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:35:13.44 ID:VUzEAQad0
 アパートの近くまで来ると、少し車の音が聞こえてくるようになった。

 近くに大きい道路なんてないはず。どこかの家族が外出していたのかもしれない。

「この奥だね」

 山田は少し震えているようだった。

 私は黙って山田の手を握った。山田も握り返してきた。
 ……実は私も、少し怖い。

 自然と忍足になってしまって、初めとは比べ物にならないほどゆっくりと進みながら、そこの角を曲がればアパート、と言うところまで来た。

 どこからか虫の鳴き声が聞こえる。

 耳をすませると、少し、何かの足音がした気がして、心臓が大きく跳ねた。
 3人で顔を見合わせる。

 焦げ紫は見えない。でも、もしかしたら。

「……行くよ」

 中村も声が震えていた。

 3人で息を飲み、角からそぅっと顔を覗かせた。
 その時だった。

「何してるんだ?」

 私たちの真後ろから、突然低い声がした。

 腰が抜けそうなほど驚いて、3人でほぼ同時に振り返ると、
 急に眩しい光が当てられて、目を細めた。

「……小学生か? こんな夜中に何してる?」

 私は固まってしまった。頭が真っ白になって、突然ふわふわとした気分になる。

 山田と私の手を、何かが思いっきり引っ張った。
 中村だった。

「警察だ、逃げるぞ! 小野、松田!」

 はっと我に返った山田と私は、弾き出されたようにそこから走り出した。

36: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:36:48.82 ID:VUzEAQad0

「走れ、走れ!」

 くねくねと折れ曲がった細い道を、3人で全力疾走で駆け抜ける。
 私は右肩を中村に支えてもらっていた。

「こら、待て!」

 後ろから追いかけてくる警察官を見て、まさかここまで警察を恐ろしく思う日が来るとは思わなかった。

 思うように前に進まない。

 捕まったらまずい。

 また広い道に出て、走り出そうとすると、山田がつまづいて転んでしまった。

「大丈夫??」

 中村と一緒に駆け寄ると、山田は膝を手で覆っていた。

「いたっ……」

 膝を擦りむいている。
 中村も私も、もう息が上がって限界だった。

「止まれー!」

 もうすぐ、そこの角まで、警察官は近づいてきていた。

 まずい。捕まる。どうしよう。

 私の頭は混線して、考えがまとまらなくなってしまっていた。

 もうむりか。

 私が大人しく捕まろう、と、口を開こうとすると、中村が叫んだ。

「こっち!」

37: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:37:52.23 ID:VUzEAQad0

 私の心臓は、胸を突き破って出てきそうだった。

 隣では山田が必死で息を整えている。

 中村も、走った疲れか、焦りか、目には涙がたまっている。

 かくいう私も、視界は涙で滲んでいた。
 無理をして何度か地面についてしまった右脚が、恐ろしいほど熱を持って痛みを伝えてくる。
 私は人差し指を思いっきり噛んだ。

「どこに行った!」

 警察官の声は近い。もうすぐそこだ。

 山田が口に手を当てて息を潜めている。

 中村はぎゅっと目を閉じている。

 私は必死で自分の心臓を大人しくさせようとした。
 鼓動が聞こえてしまわないか不安だった。

「隠れてないで出てこーい!」

 警察官の声が数メートル後ろから聞こえてきた。
 足音は近づいてくる。

 もう、すぐそばまで。

 そして、そのまま、足音は、私たちのすぐそばまで来て、それから、

 頭の上を通り過ぎて行った。

 警察官は気づく様子もなく、そのまま歩いて行って、足音は聞こえなくなった。

 しばらく息を潜めて、それから、3人で世界で一番長い息を吐き出した。

 乱れた息を整える。

「ば、ばれなくてよかった……」

 山田が涙声で安心していた。

「よ、よかった……」

 中村も声が震えていた。

 私は上を見上げる。
 蓋の隙間から、わずかに光が漏れていた。

38: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:39:26.88 ID:VUzEAQad0

『こっち!』

 諦めかけた私の腕を、中村がひっぱった。

 その目線の先には、乾いた排水路。

 雨が降った日にしか水が流れない排水路の蓋が、その部分だけ空いていた。
 昼間のうちに、近所の人がゴミ取りでもしたのかもしれない。

 中村が山田を押し込んで、それからすぐ私を中に降ろしてくれた。
 ほぼ同時に中村も飛び込む。

 少し奥に移動して、私たちは外からは見えない場所に隠れた。

 それから私たちは、警察官が通り過ぎるまで、たぶん日本で一番必死で息を止めた小学生になった。

 肩を揺らして息を整えながら、山田は中村に尋ねた。

「さっき、なんで小野と松田だったの?」

 額をぬぐいながら、中村は途切れ途切れに答えた。

「いや、もし、逃げ切れても、学校に言われたら、おしまいだと思って」

 だから、咄嗟に関係のない名前を呼んだらしい。
 こうしておけば、次の日に先生に何か言われても心配ない、と。

「なるほど、すごいね」

 山田に褒められて、中村は少し照れているようだった。

39: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:40:32.27 ID:VUzEAQad0

 息を整えた3人は、ひとまず、これからどうするかを話し合った。

「松葉杖を取りに行かないとな」

 中村が、私の方を見ながら言った。

 さっき、警察官に見つかった時、焦って走り出してしまったせいで、松葉杖を放り出してしまっていた。
 中村が肩を貸してくれたので忘れていたけど、あれがなければまともに歩けない。

「なら、まずは松葉杖を取りに行こうよ」

 山田も勧めてくれたので、まずは松葉杖の回収を急ぐことにした。

 一番出口に近かった中村が顔だけを道路に出して辺りを見回し、誰もいないことを確認してから、ひょいと道路に出た。

 次に、脚がうまく使えない私が出ることになった。

 上から中村に引き上げてもらい、下から山田に押してもらう。
 なんとかそれで排水路から出ようとした、その時、

「……焦げ紫」

 焦げ紫の匂いがした。

 2人は首を傾げている。

「化け物が、近くにいる」

 2人の顔が青ざめるのが、月明かりだけでもわかった。


40: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:41:32.11 ID:VUzEAQad0

 私は排水路から飛び出ると、2人から少し離れて、大きく息を吸った。

 ……焦げ紫。間違いない。

 今、走ってきた方から、間違いなく、焦げ紫の匂いがする。
 その時の焦りというか、緊張感というか、ジトッとした手汗の感覚は、今でも忘れない。

 山田が排水路から出てきて、中村と山田が肩を貸してくれた。

「いるって……どこに?」

「わからない。けど、今来た方向から」

 焦げ紫が濃くなる。

「こっちにきてる」

 2人は足元が覚束ないようにそわそわしていた。たぶん私もしていた。

「が、学校に向かわないと」

 中村が震えた声でそう言ったが、私はそれを引き止めた。

「い……今動いたら、化け物が私たちを見失っちゃう。もし、化け物が私と同じで匂いで付いてきてるなら、暫くここに隠れてたから、匂いが残ってて、それでここに向かってるんだ」

 ……だから、私たちは、化け物に姿が見つかるまで、この道にいないといけない。

 2人が息を飲んだのが聞こえた。


41: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:43:57.09 ID:VUzEAQad0

 ここから小学校まで、距離はだいたい500メートル。

 小学校からここは見えなくて、少なくとも二回曲がった、200メートル先の駄菓子屋の前まで行かないと、屋上にいる岡西に見つけてもらうことはできない。

「まずは、曲がり角ギリギリまで行こう」

 私は右脚を庇いながら、2人に肩を借りて歩いた。

「後ろを振り返ったらお終い。私が匂いで化け物とのだいたいの距離を測るから、私が合図するまでは曲がらないようにして。
 少しづつ後ろ姿を見せて、それで小学校まで連れて行こう」

 だいたいこんなことを2人に言った記憶があるが、正直、このときは3人ともほとんど極限状態で、誰もその時の詳しい会話を覚えていない。
 たぶんもっとシドロモドロに喋っていた。

 3人で曲がり角の直前まで行って、その場で立ち止まる。

 お互いの顔が見たくても、万が一視界の端に化け物が映ってしまえば大変なことになるので、ただ目線を動かすことしかできなかった。

「……近い」

 と言うか、ここまでくると、ほとんど足音が聞こえていた気がする。

 ただ、山田には聞こえていなかったらしいので、動揺から起きた幻聴かもしれない。

 3人とも、ただそこに立っているだけなのに、まるでマラソンの後のように、息を不安定に荒くして、鼓動を早めていた。

42: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:45:35.05 ID:VUzEAQad0

 少し湿った、気持ちの悪い足音が近づく。

 一歩。

 また一歩。

 まだだ。

 山田は少し泣き声を漏らしていた。中村が隣で歯をくいしばる気配がした。
 私も涙で視界がぼやけていた。

 一歩。

 また一歩、と足音がしたところで、明らかに匂いが少し濃くなった。

 つまり、化け物との間に、隔たりがなくなった証拠。

「走って!」

 と言い終わるより早く、私たちは駆け出した。ほんの100メートルもないような道が、そのときはどの道よりも長く感じた。

 とにかく走る。走る。

 山田が擦りむいた足で、必死に私の肩を支えてくれている。
 中村も私たちに合わせながら、1人で逃げたい気持ちを抑えてくれている。

 私も痛む身体に鞭を打って、全力で走った。

 曲がり角の直前、駄菓子屋が見える位置で、私たちは走るのをやめた。
 少しよろけながら、ぜえぜえと息を吐く。

「ばけ、化け物は、付いてきてる?」

 隣の中村が振り返ろうとしたのを、私は頭突きで止めた。
 中村は「いてっ」と小さく悲鳴をあげたあと、すぐに顔を前に向けて、「ごめん」と息を漏らした。
 私も「ごめん」と謝った。何も頭突きすることはなかった。

「でも、近いよね……」

 山田が涙で掠れた声で、前を向いたまま呟く。

 私は息を整えながら「うん」と頷く。さっきより匂いが濃くなるのが格段に早い。
 足音も、わずかに聞こえる気がする。

「次、駄菓子屋の前まで行けば、あとは、全力で逃げよう」

 あとは直線だ。立ち止まる必要はない。

 けど、逆に言えば、化け物から、私たちをはっきりと確認できてしまう。

43: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:47:20.32 ID:VUzEAQad0

 もう、3人とも涙でぐしゃぐしゃだった。

 山田も私も、普通に嗚咽を漏らして泣いていた。
 中村も、「くそぉ……」と声を漏らしながら、歯を食いしばって泣いている。

 標的は私たち。

 相手は得体の知れない化け物。

 3人でひきつける、姿を見たら終わり。

 でも追いつかれたら食べられる。

 レーダーは私の嗅覚のみ。

 私も怖かったけど、この2人の恐怖は、私の倍はあったと思う。
 今思い返せば、私を置いていかなかったこの時の2人に感謝しなければならない。

 私は泣きながら、鼻をすすって、空気を吸った。

 焦げ紫が、近い、近い、近い。

 でもまだだ。あと少し。

 三人の足が自然と前に進んでしまう。でもまだだ。

「……さん」

 私は数を数えた。
 2人の腕に力が入る。

「……にぃ」

 焦げ紫が濃くなるのを待つ。
 3人の息は荒いし、汗はすごいし、まるでサウナの中にいるようだった。
 私は空気を吸い込む。

「……いち」

 色が濃くなった。

「走れ!」

 ほとんど言い始めるのと同時に、私たちは駆け出した。
 と言うよりは、私は2人に引っ張られて、必死に左脚を動かしているだけだった。

 もう無我夢中で、ひたすら前に進むことだけを考えた。
 とにかく駄菓子屋まで、走る、走る。

 文字どおり死にそうになりながら駄菓子屋の前まで来たところで、山田が転んでしまった。つられて私も転ぶ。

「あっ……づ!」

 ギブスを巻いている右脚に激痛。油を敷いたフライパンで焼かれているように熱くなり、そのままナイフを突き立てられるような痛みが襲う。

 立ち上がろうと両手を地面に着くと、駄菓子屋の屋根からギリギリ見えた小学校の屋上から、何かの光が見えた。

44: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:49:47.02 ID:VUzEAQad0

「カメラのフラッシュだ!」

 フラッシュを使って岡西が未来人に合図をしたのが、ここからでも確認できた。

「あと少し!」

 山田がなんとか立ち上がって、私を起こそうとしてくれる。

「山田、1人で走れる??」

 中村が私の前にしゃがみ込んで、山田に向かって叫んだ。

「うん、走れる!」

「よし、背中に乗れ!」

 中村は私の腕を引っ張ると、半分引きずるようにして私を背中に乗せて、そのままの勢いで立ち上がった。

 少しふらついてから、山田の背中に全力で付いて走る。

 中村に必死でしがみつく。中村は人を背負っているとは思えない速さで山田の背中に付いて行った。

 一番近い入り口まで、あと少し。

 山田が痛めた足を庇いながら走り、中村がそれについていく。
 私は焦げ紫が濃くなるのを少しづつ感じていた。

「ま、まつっ、まってーぇ」

 突然後ろから聞こえてきた呻き声に、私たちは跳ねる勢いで驚いた。

 山田がつまづいて転びかける。

 釣られて中村が立ち止まってしまったので、私は額を後頭部にぶつけた。

「ふっ、ふーり? まっ%¥=°~て!」

 後ろから聞こえてくる奇声に、山田と中村は完全に脚が竦んでしまっていた。

 まずい。

 私が足を引っ張っているのはわかるけど、動かないことにはどうしようもない。

 でも、3人とも、既に限界だった。

 もうかなり長い時間緊張しっぱなしで、体力も底を尽きていた。

「だッ#○*け、す?ご~っ%!」

 中村も山田も完全に脚が震えてしまって、まだ数10メートルはある校門へ走る用意はもうない。

 焦げ紫が信じられないほど濃くなって、私が思わず振り返りそうになったとき、

「走れっ!」

 どこからからか聞こえてきた男の人の声で、山田と中村は弾けるように飛び出した。
 私は必死でしがみつく。


45: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:52:25.28 ID:VUzEAQad0

 そのときは、その声は警官のモノかなぁ、と思っていたけど、その間違いに気づくのは随分とあとになる。

 ふらつきながらも走って、未来人が校門を開けているのがやっと見えてきた。

「体育倉庫の中、おびき寄せて」

 酸素がなくなったように息を荒げる私たちとは正反対に、落ち着き払った未来人の横を、3人は走り抜けた。

「あと少し!」

 全開になっているシャッターをくぐり、私たちは体育倉庫に駆け込んだ。
 突っ込むようにして、私は高跳び用のマットの上に投げ出される。
 中村はバスケットボールの山にそのまま転がり込んだ。

「こ、こっち!」

 山田が声を荒げた方を見てみると、昼間は散乱していた跳び箱が、小窓に通じるように階段になっていた。
 木でできた格子も、雑に壊されていた。

 小学生1人くらいなら通れそうだ。

「登れ!」

 中村がバスケットボールを地面にばらまきながら、山田を急かした。

 山田は這うように跳び箱を登り、小窓からなんとか転がり落ちる。
 外からぼふっ、という布の音が聞こえて、高跳び用のクッションが置いてあることが匂えて取れた。

「手伝う!」

 跳び箱に必死でしがみついていると、中村が勢いよく押し上げてくれた。
 私は階段を滑るように跳び箱を登り上がって、小窓から手を突き出した。
 山田がそれを掴んで、そのまま引っ張り出してくれる。

 私はギブスを格子の破片に引っ掛けながらも、なんとかクッションの上に落ちた。

「早く!」

 シャッターに何かがぶつかる音がした。

 涙で顔をぐちゃぐちゃにした中村が手を伸ばしたのを、私と山田で思いっきり引っ張る。

 倉庫の中で何かが転ぶ音がして、それと同時に私と山田の上に中村が転がり込んできた。

 突然、群青色の香りがする。

 と思った次の瞬間、勢いよくシャッターが閉まる音がした。

「3人とも、少し離れてて」

 体育倉庫の表側から、未来人の少し張った声が聞こえる。

 3人はよろけながらもクッションから降りて、ほとんど這うようにして表側に回り込んだ。

 未来人が倉庫の角の部分に抱きついて、目を閉じている。

 私はそれを見たのを最後に、意識を失っていた。

46: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:53:32.41 ID:VUzEAQad0

 次の日。

 お母さんの声で目が覚めた私は、なんだ、昨日のことは夢か、と思ったけど、
 服が寝まきでなく、ギブスが茶焦げに汚れていたことから、「あぁ、本当だったんだ」と震えた。

 枕元に、松葉杖が置いてあった。

 明らかにおかしな格好で自室から出てきた私を見て、お母さんが悲鳴を上げてしまったことから、お父さんまで起きてきてしまったので、弁明に少々時間を要した。

 少し家を出るのは遅れたけど、車で送ってもらえたので、学校に着いたのはいつも通りの時間だった。

 校門の前で車から降ろしてもらって、お母さんは手伝ってくれると言ったけど、そこからは1人で歩いた。

 体育倉庫の前を通る。シャッターは昨日までと特に変わった様子はなくて、適度に汚れた、でも特に目立った傷はないシャッターだった。裏側の格子窓がどうなっていたかは、たしか確認しなかったと思う。

 農具倉庫の横を通って、教室に向かう。

 真新しい扉の前に立つと、群青色の匂いがしないことに驚いた。
 驚きつつも、私は松葉杖に体重を載せて、苦労しながら扉を開けた。

 誰もいない教室は、昨日の校舎と同じ建物とは思えないほど、清々しい空気だった。

47: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:56:26.94 ID:VUzEAQad0

 放課後、いつもより少し短く感じた授業の後、私たちは教室に残っていた。

 私は3人に、昨日の後のことを尋ねた。

「あのあと、誰か運んでくれたの?」

 中村と山田は、揃って首を傾げた。

 2人もあの後のことはあまり覚えていないらしく、気がつくと家にいたらしい。

 山田は親が起きる前に着替えて、見つからずに済んだそうだが、中村は夜に出歩くな、と親に怒られてしまったそうだ。

 岡西は、少し離れたところでカメラの写真をチェックしていた。

「岡西は?」

 中村が尋ねると、「うーん」と曖昧な返事をしてから「夜の屋上、すごかった」と、聞いてもいない感想を述べていた。

 こちらにカメラの画面を向ける。3人で揃って、心臓が止まりそうになる。

 屋上から撮影した、夜の街。

 今思えば綺麗だったけど、その時の私たちからしたら、恐怖の対象でしかなかった。
 今でもその画面が思い出せるのだから、その時思い出した恐怖は並々ではなかったはず。

 私は立ち上がろうとして、ふと違和感がないことに気づいた。

 そういえば、朝起きた時、枕元に松葉杖が置いてあった。
 昨日、放り投げてしまったはずなのに。

「誰か取りに行ってくれたの?」

 山田と中村は当然首を振ったし、岡西もそれは本当に知らないようだった。

 まあ、あとで未来人に聞けばいいや。

 私はそう思った。

48: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:58:12.09 ID:VUzEAQad0

 そのあと、3人が帰ってからも私は少し教室に残っていたけど、未来人はいつものように教卓の上にはいなかったし、群青色もどこにも見えなかったので、私は母の迎えを待って、そのまま帰った。

 車の窓を開けて、外の空気をにおう。
 あの骨が捨ててあった排水路の近くを通ったところで、小さく息を吸ってみたけど、もう何もなかった。

 雑草とアスファルトの匂い。

 夜、風呂に入って、匂いをリセットする。

 水、というかお湯の匂いは、今でも不思議に思うのだけど、なぜかどんな色も浮かんでこない。
 水が透明なように、匂いも透明。

 だからなのかどうかは知らないけど、あとから私はかなりの温泉好きになる。
 小学生の頃は温泉なんてあまり興味なかったけど。

 風呂の湯気を思いっきり吸って、頭の中をリセットする。

 そこでふと、今日は未来人に出会っていないことに気がついた。
 あの群青を思い出そうとする。

 透き通った、シャンプーともなんとも言えない香り。
 蒼く見えるほど深く黒い髪。

 言葉にすれば思い出せる気がするけど、まぶたの裏にあの黒っぽい青は浮かんでこなかった。

 少し不安を感じて、私は両眼をつぶって、頭からお湯に沈み込んだ。

49: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 22:59:59.99 ID:VUzEAQad0

 次の日、若干緊張しながら階段を上りきった私は、少し躊躇うように、ゆっくりと廊下を歩いて、教室に向かった。

 扉の前に立つ。

 そういえば、なんで化け物は川田の見た目をしていたんだろう。
 そして、どうして学校まで来たんだろう。

 川田は死んでしまったはずなのに、それでも川田を学校で見た、というのは、
 うまく表現できないようなショックを私に残していた。

 まあ、偶然、未来人の粒子とやらを辿っていたら、ここに来たんだろうな。

 自分にそう言い聞かせることにした。

 松葉杖に体重を傾けて、右手で扉を開こうとすると、教室から、いい香りがした。

 私は少し急いで扉を開けて、それから教室の中を覗き見る。
 教卓の上には、未来人がいた。

 体育座りをしたまま、彼女は窓際の席を見ていた。
 それから、私に気づいて、すぐに目線を空に移した。

「プレアデス星人は、季節ごとに雲の色を変えるようにしたんだよ」

 私は「へぇ」と頷きながら、自分の席に荷物を降ろした。

 それから、未来人がさっきまで見ていたのであろう席に座った。川田の席だった。

 未来人に聞きたいことがいろいろあったけど、私は、それより先に、座った机の引き出しを開けた。

 ヘアピンが、中に入っていた。川田のお気に入りだったヘアピン。

 これを川田に返さないと、と思った。

「なに、それ」

 未来人が呟いた。

「忘れ物」

 私は答えた。

50: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 23:01:29.29 ID:VUzEAQad0

 私が自分の席に戻ると、いつの間にか、未来人が隣に立っていた。
 未来人は足音がほとんどしない。

「質問があるんだけど」

 私が未来人の方を見ると、彼女は長い髪を揺らして、「いいよ」と応えた。

 一息に尋ねる。

「体育倉庫のシャッター、どうして直ってたの?」

「倉庫が未来に移動してた間に、向こうのギジュツで直してくれたんだと思う」

「あの化け物、どうなったの?」

「未来に送り返したよ。300年くらい先に」

「死んだの?」

「死んでないよ」

 私は、「へぇ」と頷きながら、マジックってどこまでできるんだろう、と思った。

 家に送ってくれたりとか、松葉杖について聞いてみると、彼女は「それはわたしの手柄じゃないよ」とそっぽを向いた。

「他は自分の手柄なんだ?」

 私が少しからかうように聞いてみると、

「そうだよ」

 未来人は両手の指先を合わせて、その隙間から細い指の間を通すようにして、私の目を見た。

 それは、未来人が、初めて私に見せた、人間らしい(というか、女の子らしい)仕草だった。
 少し首を傾けて、真っ暗な澄んだ瞳で、私の目を見つめる。

 顔は笑ってなかったけど、未来人が笑ったのがわかった。

 綺麗な顔だな、と思った。

 透き通った香りがして、頭の中が群青色でいっぱいになった。
 宇宙みたいだった。


51: ◆zsQdVcObeg 2017/02/04(土) 23:03:38.68 ID:VUzEAQad0

 小学校の頃の思い出は、だいたいこれくらい。

 他にもいろいろあった1年な気もしたけど、言ってしまえば、この数日があまりにも濃くて、他の日が薄くなってしまっている印象はある。

 私にとって、自分を未来から来たと本気で信じている女の子は、この頃から少し特別な存在だった。

 決して人々の中心にいたわけではないのに、私の記憶の中心にいるのは群青色の彼女だ。

 彼女との付き合いが、これから先、もっと長く深くなることは、まだこの時の私には想像できなかったけど、
 でも、まだ一緒にいたいな、という気はしていた。

 私は、彼女にこう尋ねたことがある。

「大人になったら、なにがしたいの?」

 彼女は、空を見上げたまま答えた。

「どうして、そんなこと聞くの?」

「気になったから」

 未来人は、会話を続けたくないと思った時、こう答える。

「ふぅん」

 私はそのことを知っていたので、それ以上なにも聞かなかった。

 放課後の教室、オレンジ色の夕陽がカーテンを揺らす中、私は、群青色の未来人から、こう声をかけられる。
 
「宇宙人っていると思う?」

 透き通った声だった。

「いないと思う」

 そう答えると、彼女は可愛げのない顔でそっぽを向いた。

「なら、未来人は?」

「それは、いると思う」

「ふぅん」

 そっぽを向いたまま、彼女は少し嬉しそうに喉を鳴らした。

 面白い子だな、と思った。






2: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:36:37.29 ID:TTAc4R6C0
 未来人と出会ってから、1年が過ぎた。

 中学校にあがるとき、未来人と同じ中学校になれるかと少し不安に思ったけど、何の問題もなく同じ中学校に進学していた。

 小学校の卒業式のとき、周りの雰囲気も手伝ってか、どこか宇宙の遠くへ行ってしまいそうな気配がしていたけど、
 いくら彼女といえども普通の人間なので、卒業証書も受け取っていたし、両親は卒業式を見に来ていた。

 未来人と同じ黒髪の、優しそうなお母さんだった。

 ところで、話は逸れるけども、1つ確認しておいて欲しいことがある。

 私は今、この話を知って欲しくて手帳に書いているところだ。まだ誰にも、このことは話していない。

 そして、1つ前の話では、この話の中心となる彼女のことを、始終「未来人」と呼んでいた。
 今回も続けて、あの群青色の彼女のことは「未来人」と呼ぶことにする。違和感を感じることもあると思う。

 できれば、その違和感を保ったままでいてもらえるとありがたい。

 私の記憶力にもよるけど、なるべく早めに理由は伝えたいと思う。

3: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:37:29.39 ID:TTAc4R6C0

 中学生になっても彼女は相変わらずで、授業は抜けたり抜けなかったりして、放課後はどこかでぼーっとしていることが多かった。

 ただ、とっている行動は変わらなくても、周りの対応は大きく変化した。

 まず、授業を抜けるたびに呼び戻されることが多くなった。
 先生によっては、まるで金八先生に憧れて教師になったような人もいて、そういう人からすれば、特に理由もなしに授業をサボろうとする未来人は、いろんな意味で格好の的だった。

「小学校の頃はとめられなかったのに」

 彼女は一度だけそう言っていたが、いま思うと、あの小学校の先生は放任過ぎていたのだ。

 次第に、未来人は授業を抜けるタイミングを計るようになった。
 抜けたところでそのまま授業を進める先生のときは、どこかへふらっと消えて、ものさし(教員用のあの大きな定規)を竹刀のかわりに持ち歩くような先生の授業の時は、窓際の席について、空を見上げていることが多くなった。

 それでも未来人は相変わらず勉強はできて(国語以外は)、特に中学校に入ってからは理科がお気に入りのようだった。

 手先が器用だったので、実験の時も他の班とは比べ物にならないような早さと正確さで実験を楽しんでいた。
 彼女が理科で満点以外を取るのを、私は見たことがない。

4: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:38:52.59 ID:TTAc4R6C0

 中学校への進学はほとんど地区で決まっていたようなものなので、山田や岡西、中村も、同じ中学校に入学した。

 ただ、他の小学校の児童も多く集まったせいか、岡西以外の2人は、クラスは別になってしまったけど。

 今回の話には、山田と中村はあまり関わることはない。

 岡西は相変わらずカメラが好きで、中学校ではカメラは不用物として没収の対象だったけど、彼はのらりくらりと先生の監視を交わし、幾度となく校内の風景を撮影したりしていた。

 ただ、そんな岡西をクラスメイトたちはあまりいい目では見ていなかった印象はある。

 中村は、テニス部に入部していた。前々から興味はあったようで、中学校に入学するとすぐにラケットを買ってもらっていた。
 実際にラケットを部活で握れるようになったのは、夏の真ん中あたりだった。

 どちらかというとあまり積極的ではない印象の中村だったが、部活に入ってからは、心なしか明るくなった気がする。

 岡西は部活には入らないことにしたようで、未来人や私と同じように、帰宅部という名の下、他の生徒よりも多くの自由時間を満喫していた。

 山田は、たしか女子テニス部に入っていた。ただ、男子テニス部と女子テニス部はコートの場所も違ったので、中村と部活で関わることはあまりなかったようだ。

 そんな感じで、3人とも、中学生らしくなるための、中学生らしい準備は進んでいた。

5: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:40:09.42 ID:TTAc4R6C0

 先ほども書いたように、未来人は理科が好きだった。

 特に物理の分野が気に入っていたようで、唯一、一度もサボったことがない授業が理科だった。真面目に話を聞いていたことは一度もなかったけど。

 だが、彼女と同じくらい、理科の高得点をとる生徒がいた。

 同じクラスの東田だった。

 東田は私たちとは違う小学校出身で、もともと賢いことで有名だったそうなのだが(なぜか山田から聞いた)、その噂は伊達ではなかった。
 得意の理科が満点なのは当たり前、他の教科も80点より下をとったところは見たことがなかった。

 私は中学校に入った途端テストが難しくなったのに驚いて、さらに東田の点を見て自分との差に驚いた。

 さらに彼は児童会長(小学校の生徒会長のようなもの)を務めていたということもあり、中学校でも率先して委員長に志願していた。東田を推薦していた生徒も多くいたので、ほぼ、満場一致だった。

 東田は中間テストの結果が返ってきた時、自分より、僅か2点高い点を取った未来人に、「次は負けないからね」と余裕を持った表情で話しかけていた。東田の中では、未来人はライバルだったようだ。

 未来人は、「ふぅん」と窓の外を見ていた。

 そんな東田だったが、匂いの色が薄紫のような色をしていたので、あまり好きではなかった(焦げ紫を思い出す)。

 今思い返してもくだらない理由で毛嫌いしていたと思うのだが、嫌なものは嫌だ。仕方ない。

6: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:41:10.01 ID:TTAc4R6C0

 それからもう1人、中学校からの知り合いでよく覚えている人間がいる。

 同じクラスの滝野だった。

 私たちが通っていた中学校には、小学校と同じように飼育小屋が設けられていて、そこでウサギと、
 飼育小屋の隣にあった広い池で、カメを飼っていた。池にはカメの他にも、色々と魚がいたそうなのだけれど、何が泳いでいたのか把握したことはない。

 滝野は動物、というか小さな生き物が大好きなようで、理科室のメダカなんかにも人一倍の興味を見せていた。

 ただ、人一倍鈍臭くもあったので、男子からスカートをめくられたりしても、おろおろと戸惑うことしかできていなかった。
 今思うと、中学生にもなってスカートめくりをする男子は、それはそれで問題があるような気がしないでもない。

 滝野は、岡西の写真撮影に嫌な顔をした中の1人でもあった。
 特に学校の風景よりも動物が入っているものを嫌うようで、間違えて岡西がメダカに向かってフラッシュを焚いてしまった時は、珍しく声を大きくして怒っていた。

 それ以降、岡西が動物に向けてフラッシュを焚くことはなかった。

 それから、滝野は未来人の奇行を全くと言っていいほど気にしない人だった。
 他の生徒は、教卓の上に登りたがったり、授業が始まると消えていたりする彼女のことを初めは好奇の視線で見ていたものだが、滝野は、動物に手を出さない限りは、ほぼ全てに我関せずだった。

 つまり、変わった奴だったのだ。

7: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:42:20.39 ID:TTAc4R6C0

「携帯買ってもらったんだ」

「はぁ」

 未来人はというと、相変わらず?みどころのない、ふわふわした性格だった。

「番号はね……」

「ふぅん」

 私が携帯を買ってもらったばかりで浮かれているときも、彼女は空を見上げていた。
 隣で私が番号を読み上げているのにもかかわらず、彼女は変なタイミングで「はぁ」とか「ふぅん」とか、適当な相槌を繰り返していた。

「宇宙人も電波飛ばすから、これで宇宙人の仲間入りだね」

「へぇ」

 私も私で、たまに話を聞いて欲しくなるけど、真剣に聞かれるのは恥ずかしい、という人間なので、未来人の適当な反応は気持ちが良かった。

 中学1年のときの彼女は特にぼーっとしていた印象が強くて、
 放課後の時間で、ほとんど唯一と言っていいほどの生産的な会話は、せいぜい未来人には妹がいる、という話だった。

 それですら自分の話ではない。

 未来人は?みどころのない性格をしていた。

 私は自然とそんな未来人といる時間が増えて、端から見れば、私も未来人もそう大差なかったのかもしれない……と、当時は感じていた。

 でもそれはそれで彼女に失礼な気もするので、現在から考えてみると、そうではなかった、と訂正しておく。

8: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:43:48.98 ID:TTAc4R6C0

 最後に、未来人の話をする上で、欠かせないことがあった。放課後の過ごし方。

 小学校の頃は誰も残っていなくて、静かな空間といえば教室だったけど、中学生になると、部活やら委員会やらで残っている人も増えた。

 けど、それについては未来人は全く気にしていないようで、初めのうちは教室に居座っていた。
 が、私がそれを気にするようになった。

 未来人はだいたい、三角座りをする。

 小学生のころは気にしなかったけど、中学生になってしまうと、スカートの中に目線がいってしまう男子が増える。それを気にするようになった。私が。

 もちろん彼らに悪気がないのはわかっているし、目線がいってしまう気持ちもわからなくはない。

 だからといって、そのまま放っておくのも気が引けたので、未来人と私が中学校に入学してしばらくの間は、休み時間は学校探検をするようになった。

 未来人は私がスカートの件を説明すると、「ふぅん」といって大人しく着いてきた。

 彼女は、ぼーっとできるならどこでもいいらしい。

 3日くらいは、彼女が心置き無く放心できる場所を探していた覚えがある。

 未来人は理科準備室が気になっていたようだけど、さすがに鍵がかかっていたし、先生にも「やめてくれ」と言われたので、彼女はあっさりと諦めた。

 次に未来人が狙ったのは、屋上だった。

 ただ、当然のように屋上の入り口には鍵がかかっていて、生徒が入ることはできなかった。

 私は諦めるように未来人に言ったけど、彼女は「うーん」と鍵穴を覗いたり叩いたりして、しばらくそこで鍵と奮闘していた。
 突然、湧いて出したようにどこからか針金を取り出して、穴に突っ込み始めたので、流石にそれはまずいと思い、とめた。

 そのあとはすぐに諦めたようだった。

9: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:45:04.85 ID:TTAc4R6C0

 その次の日、未来人は再び屋上の前まで来ると、当たり前のように自然な動きで、スカートのポケットから真新しい鍵を取り出した。

 あまりに当然のように持っていたので、私は逆に驚かなくて、

「なんの鍵?」

 と聞くと、未来人は

「屋上の鍵」

 と答えたので、今度は驚いた。

 屋上の鍵は、生徒には触れない場所にあったはず。私も3年間あの中学校で過ごしたけど、一度もオリジナルの屋上の鍵を見たことはない。

 どうやって借りたのか、と尋ねると、未来人は鍵の先を削るように撫でながら、そっぽを向いて返事をした。

「昨日のはりがねとか、いろいろしたので形覚えて、つくってきた」

 そんな馬鹿な、と言おうとすると、彼女は鍵を鍵穴に差し込み、扉はさも当然のように「カチャリ」と返事をした。噛み合っている音がした。
 
 未来人は得意げな顔をすることもなく、鍵をスカートにしまうと、扉の隙間からスッと吸い込まれていった。

 私も少しあっけにとられてから、未来人の後に続いた。

 錆びついた扉を押し開けると、普段人の入ることのない屋上は、コンクリートの隙間から雑草が生えていたり、端の方に黒っぽい砂なんかが溜まったりしていて、とても清潔だとか過ごしやすそうだとか、そういう言葉は出てこなかった。

 屋上をぐるりと見渡すと、未来人がどこにもいないことに気づく。
 息を吸ってみると、かなり近くで群青色の香りがしたので、左右を確認してみるも、彼女はいない。

「なにしてるの?」

 上を見ると、目と鼻の先に、未来人がいた。

 下を向いていても、綺麗な顔だった。

10: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:46:02.69 ID:TTAc4R6C0

 未来人は塔屋の上から、身を乗り出して私を見ていた。

「どうやって登ったの?」

「塔屋の後ろ、階段があるよ」

 未来人が、背中を反らせるようにして塔屋の上に消えていったので、私も歩いて回り込んでみると、確かに、錆び付いた鉄のハシゴがあった。

 ただ、最近人が触った形跡はなかった。

 少し躊躇いながらも、その梯子を登る。塔屋の上には貯水タンクがあって、下に人が1人くらいなら寝転べそうな隙間があった。

 ものすごく汚れていたけど。

 貯水タンクを含めて、上のスペースは5畳ほど。割と広くて驚いた記憶がある。

「ここ気に入った」

「でも汚いよ?」

「大丈夫、昼間はタンクが影作ってくれるから」

 返事になっていなかったが、未来人はこの場所がお気に召したようだった。向こう側を向いていたので、どんな表情だったかはわからない。

 それが、入学してから1週間が過ぎた頃の話だった。

 そして、その次の日から、事は始まった。

12: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:57:03.13 ID:TTAc4R6C0

 本題に入ろう。
 ただ、今回は、長期に渡って何度か起きた話になる。

 4月、桜が散り終えた頃、少し暖かすぎる陽射し、冷たい風の吹く、通学中のことだった。

 中学校は小学校よりも遠くになってしまったので、私は自転車で通学していた。
 自転車は嫌いではない。

 いつものように中学校近くの墓地の横を通っていると、道の真ん中に何か落ちているのを見つけた。

 赤銅色の匂い。

 いつもならゴミかな、と避けて通るだけだけど、その日は匂いが普通のゴミとは違ったので、少し自転車の速度を緩めてそれを見た。

 見て、少し動揺した。

 小鳥の死体だった。

 自転車を停めて、片手で支えながら、小鳥を見てみると、お腹の辺りに切り傷があった。そこから血が滲んでいた。

 この辺りには鷹がいる。

 小鳥遊と書いてタカナシとも読むし、「鷹は小鳥を襲うんだなー」と、自分の中で納得して、小鳥を道の端によけてから、私は自転車にまたがった。

 朝から嫌なものを見てしまったな、と、その日は思った。

 学校に着くと、朝の話題の半分はその小鳥の死体で占められていた。田舎の中学生の話題なんて、それくらいでも大事件になる。

 未来人は今日は来ていなくて、私は暇になって岡西の方を見ると、岡西は自分の席でカメラを弄っていた。

「岡西、写真撮ったか?」

 目立ちたがり屋が茶化すようにそう尋ねると、岡西はどうでも良さげに頷いて、

「はぁ、見てないから撮ってないけど」

「ってことは、見たら撮ってたのか?」

 目立ちたがり屋がそう言うと、教室からは「キモー」「グロいの好きとか」と、岡西にあまり良くない視線が向けられた。目立ちたがり屋は得意げな顔をしていた。

 岡西は一瞬顔をしかめた気がしたけど、すぐに目線をカメラに戻して、気にしていない様子だった。

 今思うと、岡西は、中学校に入ったあたりから、人付き合いをしないようになっていった気がする。
 ただ、私たちとは相変わらず話もするし、遊んだりもしていたので、人と関わるのが嫌いではなかったようだ。

13: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:58:00.40 ID:TTAc4R6C0

 目立ちたがり屋が、さらに岡西に向けて何か言おうとすると、東田がそれを遮るように振り返った。

「そういえばお前、1時間目の理科の予習したの?」

「へ?」

「次の授業の始め、お前、先生に指名される番だよ」

 そう言われると、目立ちたがり屋は急に焦り出して、ノートと筆箱を取り出していた。東田は目立ちたがり屋にノートを貸してあげていた。

 調子のいいやつ、と、私は感じた。

 東田は私の視線に気づくと、こちらを向いて、「どうかした?」という表情をした。
 私はそんなに表情のボキャブラリーはなかったので、適当に頷いて、それからよそを向いて誤魔化した。

 やっぱり、東田はなんだか好きになれなかった。

 その日の放課後、私は国語係で提出物を回収して職員室に持っていかなければならなかったので、しばらく教室に残っていた。

 未来人はチャイムが鳴ったその時には、すでに教室にはいなかった。
 残っていたのは、私と、花に水やりをするために残っていた滝野だった。

 中学生にしては広すぎる教室で、放課後2人。私は黙って名簿にチェックをつけていく。

 特に仲が良かったわけでもないけど、何も話さないのも変かと思い、私は少し考えてから、何の花が好きなのかを尋ねた。

 滝野は声が小さかった。

 梅が好きなのだそうだけど、それを聞き取るのにも、しばらく考え込んでしまった。
 そこから面白おかしく話題が広げられればよかったのだけども、残念ながら私にはそんな会話術はなかったので、好きな花を聞いただけで会話は終わってしまった。

 お見合いか。

 これは後から聞いたことだけど、滝野は動物が好きなだけで、花は特に興味があるわけではないらしい。
 私が思っていた以上に、あの空間は気まずいものだったようだ。

14: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:58:50.52 ID:TTAc4R6C0

 次の日、朝早くに学校に来てみると、教室の扉を開ける前に、群青色の香りがした。

 音を立てて扉を開くと、未来人が、教卓の上に三角座りをしていた。

「スカートの中、見えるよ」

「別にいい」

「私がダメなの」

 未来人はしぶしぶ教卓から降りた。

 この辺りで気づいたのかどうかは覚えてないけど、彼女は身のこなしが非常に軽かった。教卓から降りても、足音が聞こえないほどだった。

「そういえば昨日は、屋上にいたの?」

 私が未来人の方を振り返ると、彼女はすでにそこではなく、窓側の自分の席に移動していた。

 青く見えるほど黒い髪を朝陽に照らして、彼女はコクリと頷く。

「でも、理科室寄ったし、中庭にも遊びにいった」

 理科室と中庭は随分と離れているけど、何か用があったとは思えなかった。
 まあ、未来人のことだし、ふらふらと校舎を放浪していたのだろう。行き先が屋上と決まっていても、そこに向かうルートはたくさんあるわけだし。

 あんなに汚れてたけど、どこの部分に座ってぼーっとしてたのだろう、と考えていると、未来人はポツリと「今日もいく」と、独り言を言った。

 私は頷いた。

 そしてその日の1時間目が始まる前、理科室のメダカが全滅している、という話題が、教室で広まった。

15: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 20:59:54.29 ID:TTAc4R6C0
 犯人探しが始まった。

 先生達は、メダカが死んだのは急に気温が上がったから、と言って話題を収めようとしたが、逆に話題を収めようとする先生のその姿勢が、生徒達を駆り立てていた。

 まず、昨日の6時間目までは生きていたことから、放課後に部活がない生徒が疑われることになった。
 よく考えると、別に部活をしていたところで、いくらでも抜けられると思うのだけれど。

 うちのクラスで言うと、岡西、滝野、私、それから未来人だった。ほとんどの生徒は部活に入っている。

 ただ、犯人を捜すのはいいものの、どうやってメダカを殺したのかがわからないと、突き止めようがない、ということになった。

 ヒーターの温度を上げる、だとか、水から出して干からびさせる、だとか、色々と案が上がっていたけど、目立ちたがり屋がふと、

「滝野、お前そういうの詳しいんじゃねーの?」

 と大声で尋ねると、滝野がしどろもどろになりながら、

「せ、洗剤……」

 と答えたことから、犯人が使った道具は洗剤、ということになった。

 証拠もないのに凶器を決めてしまうあたり、いかにも公開捜査が早く終わりそうな雰囲気を漂わしている。

 騒めく教室を、東田が「みんな、落ち着きなよ」と静かにしようとしていた。

 先に言ってしまうと、結局、このメダカ全滅事件については、犯人はわからないままに終わってしまっている。
 今考えるとだいたいの予想はつくが、今更考えても仕方ないし、あまり思い出したくもない。

 そして、真っ先に疑われたのは、滝野でもなく、私でもなく、未来人だった。

16: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:00:36.83 ID:TTAc4R6C0

 もともと人とあまり話すことのなかった未来人は、まだ進級したばかりのクラスで、浮いたモノ扱いされるのは当然のことだった。

 それに加えて、事件のあった次の日に朝から来ていなかったこともあり(人が集まる前にどこかへ消えていた)、それを証拠として、教室の空気は彼女を犯人とする方向でほとんど決定していた。

 ……これはこの時の私の立場だからそう感じたのこもしれないけど、
 まだ仲のいい人も定まっていないような時期に、発言力のある人に異議を唱えることは、誰にもできなかったことのように思う。

 その日は確か、未来人は4時間目あたりに戻ってきた。
 気付かなくなったわけではないだろうけど、周りが向けた白い目線を、特に気に病んでいる様子はなかった。

 昼休み、未来人と少し話そうと思い教室を見渡すと、彼女の姿はもうなかった。
 まだ群青色が残っていたので、少し前までは教室にいたようだ。私は香りをたどって、廊下を1人で歩く。

 案の定、私は屋上の扉の前にたどり着いた。けど、私は鍵を持っていない。どうしようかと二の足を踏んでいると、カチャリと小気味のいい音が鳴った。
 冷たいドアノブを回してみると、当たり前のように開いたので、身体が前に傾いてしまった。

 昨日と変わらず、汚れたままの屋上。

「登っていいよ」

 頭の上から声がしたので、私は塔屋の裏側へ回りながら尋ねた。

「どうやってそこから鍵開けたの?」

 塔屋の上のスペースから鍵穴まで、身長分は距離があるはずだ。手を伸ばして届く長さではない。

「足ひっかけて、ぶらさがった」

 長い髪を垂らして、逆さまにぶら下がる未来人を想像する。

「危ないよ」

「自分は平気」

 中学生になると、彼女は曲芸師のような動きもできるようになってきていた。

「怪我したら、不便だよ」

「ふぅん」

 私は錆び付いたはしごに手をかけて、体をぐいっと持ち上げた。鉄の薄い赤の匂い。

17: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:01:51.81 ID:TTAc4R6C0

 そのまま頭の上に頭を出すと、思わず目を丸くしてしまった。

 綺麗に掃除されている。

「片付けておいた」

 塔屋の上は、昨日と同じ場所とは思えないほど綺麗になっていた。
 雑草なんて一本も生えていないし、寝転がっても問題ないくらいにまで、砂埃やゴミも片付けられていた。

「……どうやって?」

 昨日の今日でこれである。
 訝しげに尋ねると、未来人は背中の後ろで手を組んで答えた。

「未来のギジュツを使った」

 私は、今日は朝から急いで掃除したんだろうな、と思った。

 未来人が端の方に寝転がったので、私もその隣に寝転がる。
 雲ひとつない青空に、少し冷たい風が吹いて、油断するとそのまま居眠りしてしまいそうな天気だった。

「メダカのこと、知ってる?」

 私は、何の気なしに尋ねた。

「理科室の?」

 当然流されるだろうな、と思っていると、彼女は予想外の返事を返してきた。
 少し驚く。

「なんで知ってるの」

「さぁ」

 誰かに聞いたのかな、と思ったけど、未来人が人と話しているところを、私は想像できなかった。

 首だけ彼女の方に向けると、隣では、あたりまえだけど、未来人が仰向けになって寝転がっていた。

 砂ひとつ落ちていない石のタイルに、深い青のような、細い黒髪が広がっている。華奢で儚くすら思えるほど薄い身体は、油断すると、そのまま床に吸い込まれてしまいそうだった。

18: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:03:47.71 ID:TTAc4R6C0
「犯人、誰なんだろう」

 ぽつりと呟くと、片耳が床についていたので、その言葉は、私の頭に大きく響いた。

「気になるってことは」

 未来人は空を見上げたまま、ゆっくりと口を開いた。

「知ってる人の中に、ヨウギシャがいるんだ」

 私は驚いた。
 本当に何気なく呟いただけだったのに、彼女にそう言われると、さっきまで無色のまま頭に響いた言葉に、濃い色が塗られていく。

 ゆっくりと、未来人がこちらを向く。

 私たちは鏡合わせのような状態になった。澄んだ瞳だった。

「……犯人、知ってるの?」

 彼女は目を閉じて、小さく肩をすくめた。

「なんでも知ってるわけではないよ」

 私は少しがっかりしたけど、逆に安心もした。自分の中の疑いに、ハンコを押してほしいような、ほしくないような。

 昼休みが終わるまで、私たちはそこで寝転がっていた。
 予鈴が鳴ってから、また錆びたハシゴを降りた。未来人は塔屋の上から飛び降りた。足音が聞こえなかった気がする。

 昼休みが終わりそうで、体育館からの帰りや、移動教室なんかで、騒々しい廊下を黙って歩く。

 私は考えた。

 ……どうして滝野は、メダカを殺した凶器が洗剤だと、迷いなく答えたんだろう。

19: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:04:56.91 ID:TTAc4R6C0

 メダカの犯人探しは、翌々日には先生達の思惑通り、鎮静していた。中学生なんてそんなものだ。

 一週間くらいは、未来人と一緒に行動すると、避けられているようなところはあったけど、それも、半月も経てばなくなっていた。

 私は正直、本当の犯人が気になってしょうがなかったけど、未来人はそのことについてそれ以上何かを言う気は無さそうだった。

 それから、いつ頃だったか、詳しい日付は覚えていないけど、4月の終わり頃、私たちはいつも通り屋上にいた。

 いつの間にか、昼休みと放課後、部活のない私は屋上に来ることが増えていて、小学校の時よりも未来人の隣にいることが増えていた。

 その頃にはもうハシゴの錆も全部きれいに取り払っていて、
 未来人は、どうやって計算したのか、何メートルまでの高さなら他の場所の死角になるかをきっちりと割り出してきて、塔屋の上は秘密基地のようになりつつあった。

「今日は日傘いるかな」

 彼女はそう言うと、給水タンクの下から、隠しておいた日傘と日傘立て(日傘をビーチパラソルのように置くために作った木の台座)を取り出して、塔屋の縁にそれを置いた。

 外からは見えないように、屋上の内側に面している縁に、未来人は静かに座り込む。
 塔屋が見えるようになっている教室は、都合のいいことに、
 人の入らない理科準備室、社会科準備室、それから学習室と音楽準備室の4箇所なので、放課後に誰かに見つかることはなかった。

 私の人生において、これほどまでに開放的で人に見つからない場所は、後にも先にもここしかない。

20: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:05:43.02 ID:TTAc4R6C0

 その日はよく晴れていて、私は、未来人とは反対側の、給水タンクの陰から、中庭を眺めていた。

 ここは中庭が見下ろせる代わりに、中庭からも見えてしまうという難点があったけど、中庭なんてほとんど人は来ないし、そもそも給水タンクの方向を見上げる人なんていなかった。

 中庭には、近くの道路から用水路が引っ張ってあって、少し広めの池がつくられてあった。
 飼育委員が世話をしているらしい(滝野以外が来ているところを見たことはないけど)カメも、そこで暮らしていた。

 晴れた日は、池の周囲が日向になるので、よくカメが日向ぼっこをしていた。
 その日もカメはのそのそと池から這い出てきて、緑色の甲羅を陽に当てて乾かしていた。小さな緑が花のように池の周りに咲いている。

 ふとそこに、校舎の影から誰かやってきた。
 岡西だった。

 池のカメは人が来ても逃げないけど、来た人は何匹ものカメから一斉に見つめられる、という若干怖い体験をしなければならなかった。
 岡西は池の近くまで歩み寄ると、カメラを構えて、カメの撮影をしていた。

 私はそれをしばらく眺めていたけど、どんな写真を撮っているのか気になって、中庭まで降りてみることにした。

「出かけてくる」

 一言言い残して、私はカバンを置いたまま、塔屋から降りた。
 扉の前まで来たところで、未来人が鍵を投げてくれる。

 上を見上げるとスカートの中が見えてしまうので、私は上は見ずに落ちてくる鍵を受け取った。

 鍵を開けて、中に入って、それから近くに人がいないことを確認してから、鍵を締める。

 中庭に繋がる裏口は、この階段を降りたすぐそこにある。

 私が少し駆け足で降りていると、途中で滝野とすれ違ったので、お互いに会釈をしてそのまま通り過ぎた。

21: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:06:34.77 ID:TTAc4R6C0

 中庭に着くと、岡西が近くの石に腰掛けて、写真の確認をしているところだった。

「写真、撮ってたの?」

 私が近寄りながら話しかけると、岡西はこちらを見て、頷いて、それから

「みる?」

 と尋ねてきた。

 カメラを受け取ると、すでに写真が表示されていて、日向ぼっこをするカメが映し出されていた。

 深緑の色をした池を背景に、少し手前の方でピンボケした青い花があって、その中心に目を細めているカメが写っていた。

 次へのボタンを押すと、他にも似たような写真がたくさんあって、割と面白かった記憶がある。
 カメのほかにも、何でもない風景だったり、雨上がりの蜘蛛の巣だったり、少し遡るとメダカなんかの写真もあった。

 どれがお勧めか、と私が聞くと、岡西は「これかな」と言って、一枚の写真を表示した。

 右下にカメが写っていて、そのカメが左上を見上げている、という、確かに面白い写真だった。

「これ、木の枝の向きとか、草とか風で波打つ池の水面の向きが、ぜんぶカメの方に向かってるんだ」

 言われてみると、なるほど、すべての線がカメに集まるようなイメージが湧いてきて、さっきとは違う写真に見えた。

 それからしばらく岡西から写真を見せてもらって、総下校のチャイムが鳴りそうだったので、カメラを返してから、急いで屋上に戻った。
 総下校に遅れてしまうと、罰として宿題のプリントをすることになっていた。それは避けたかったのだ。

 屋上には、さっきと全く変わらない姿勢の未来人がいた。

「なにしてたの」

「岡西と話してた」

「ふぅん」

 夕陽に照らされているその横顔は、まるで作り物のように綺麗だった。

22: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:07:55.91 ID:TTAc4R6C0

 その翌日のことだった。

 その日はやけに人が来るのが遅くて、私はその日の分の宿題を終わらせてしまって、それでもいつもの半分ほどしか人がいなかったので、
 何か集まりでもあったのかと不安になって、隣のクラスの山田のところに聞きに行くことにした(未来人は教室にはいなかった)。

 となりのクラスの扉を開けると、やっぱり人はまばらで、少し不安に感じながら、山田の背中を探した。

 今思うと不思議で仕方がないのだけど、中学校には、自分のクラス以外には入っていけない、という謎のルールがあった。なんでみんなそんなルール守っていたのだろう。

 見慣れたシルエットは、後ろの席に座って本を読んでいた。声を掛けようか迷っていると、中村が気付いてくれて、山田の肩を叩いた。
 山田は、はっと気づいたように顔を上げて、私の顔を見ると、てくてくと歩み寄ってくる。

「どうかしたの?」

「人がいないから、集まりあったっけ、って」

 私がそう言うと、山田は「たしかに」と、きょろきょろ教室を見渡した。

 中学生になってから、山田はツインテールだった髪を、後ろの方で1つに結ぶようになって、少しお姉さんな印象になった。
 ただ、残念ながら、身長の方はなかなか伸びなくて、150センチあたりで、成長は止まってしまっていた。ちなみに、この時は私よりも大きかった。

「中庭だろ?」

 山田とは対称に、中学に入ってからぐんぐんと背が伸びた中村が、私たちに向けてそう言った。

「中庭で何か集まりがあるの?」

「知らん。けど、人はけっこう集まってた」

 ならば野次馬だ、と、時間もあったし、普通に気になったので、私と山田は中庭に向かった。
 ついでに中村も一緒に来た。


23: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:08:58.75 ID:TTAc4R6C0

 中庭の入り口に着くと、思った以上の人混みで、その奥になにがあるのか見えなかった。ただ、心なしか男子が多かったように思う。

 前の方では先生が2人くらいいて、「あんまり見るな、教室に戻れ」と生徒を追い返そうとしていた。

 これだとなにがあるのか見えないな、と思った私は、2人に、

「来て。いいところがある」

 と言って、屋上へ向かった。

 実はこの時、既に中村は何度か来ていて(初めはダメ元で屋上に来れるかどうか見に来ただけだったようだけど、未来人が鍵を開けた)、
 私はこの2人に教えないのは、なんだか気持ちよくないな、と思っていたところだった。

 屋上の扉の前に立つと、2人は不思議そうな顔をした。
 私は気にせず、扉の前で二回足踏みをした。間をおかずに、カチャリと音がする。

 ドアノブをひねると、まるでこの扉には元から鍵なんて付いていなかったのように、するりと開いたので、山田と中村は驚いていた。

 真上から、群青の香り。

「連れてきてもよかった?」

「来るのはわかってたから」

 未来人はそう答えると、塔屋の縁から足をぶら下げた。

 私は2人に塔屋の裏側のハシゴを登るように言う。中村は少し周りを警戒しながら、するすると登って行った。
 上から「おぉ」と声が漏れたのが聞こえる。

 山田は少し怖がっていたので、私が真下について、ゆっくりと登った。
 塔屋の上に立つと、山田もやっぱり「わぁ」と声を漏らしていた。

 2人が塔屋の上からきょろきょろしていると、未来人が頭を下げるようにジェスチャーを向けてきたので、私たちはその場にしゃがんだ。

「身長、ギリギリアウト」

 中村は、下からでも頭のてっぺんが見えてしまう身長だったらしい。

 中村は根が慎重(ビビリ)な性格なので、これ以降、塔屋の上で真っ直ぐ立ったことは一度もない。

24: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:09:39.31 ID:TTAc4R6C0

 私が未来人に、中庭に何かあったのかを尋ねようとすると、彼女は、少し考えてから、

「見てもいいけど、目が良いなら、あんまり見ないほうが良いかも」

 と、彼女にしては珍しくまともな返事をよこした。答えにはなっていなかったので、まともかどうかは私の基準の話なのだけど。

「おれ、視力1.2」

「わたしは0.8」

 私はどれくらいか覚えてないけど、少なくともメガネがなくても日常生活が送れるレベルではあった。

 3人で下から見つからないように、こっそりと中庭を覗き込むと、人混みはだいぶひいていて、さっきよりは人は少なくなっていた。
 けど、普段はほとんど人はいないので、1人でもいると普通ではないように思えた。

 目を凝らして、先生が立っている後ろの、池の周りを見てみると、何やら赤っぽい果物のようなモノが点々と落ちている。
 それに、心なしか、池が前の日より小さく見えた気がする。

 何かわからなかったので、隣の山田の顔を見ると、山田はじっと池の方を見つめた後、すぐに目をそらした。
 中村は、目をそらすわけではないけど、あまり気持ちの良さそうな顔はしていなかった。

 私は尋ねる。

「なにがあるの?」

 山田は黙っていたので、中村が答えた。

「カメの死骸」

 私はもう一度池の方を見る。

 屋上に冷たい風が吹く。

 赤い果実のようなものが散らばっていた。

25: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:10:50.27 ID:TTAc4R6C0

 教室に戻ると、やっぱり、話題は中庭のカメのことで埋まっていた。
 色がどうだった、とか、どこが割られていた、とか、何匹やられていた、とか。

 私は何でもない風な顔をして一人で席に着いて(未来人はついてこなかった)、教科書を読むふりをしながら、何人かの会話に耳を傾けていた。

 案の定、誰がやったのか、という話が一番盛り上がっているようだった。

 話によると、屋上からは見えなかったけど、池に繋がっている用水路が、少し離れたところで石か何かでせき止められていて、水があまり流れなくなっていたらしい。多分、それで池が少し小さく見えたんだろう。

 周りに石は落ちていなかったが、園芸部がたまに使うクワが1本なくなっていたので、おそらくが使われたのではないか、ということらしかった。

 私は、クワなんて大きなモノだったらどこかに隠すのは難しいので、まだこの校舎の中にあるのかな、なんて考えたりしていた。

 ふと東田の方を見ると、自分の席に座って教科書を読んでいるだけだった。今日の予習だろうか、と思った。

 しばらく話を聞いていると、教室の後ろの方から、暗い顔をした滝野が扉を開けて入ってきた。ひと際大きな声で、目立ちたがり屋が滝野に向かって話しかける。

「滝野、よくカメの世話してたけど、何かしらねーの?」

 少しガラの悪いタイプの女子が、何人かで「えー、ちえちゃん可哀想だよー」と笑いながら話しかけていたが、目立ちたがり屋は「うるせー」と言って、気にせず話しかけていた。

 ……この時は、無神経だな、くらいにしか思わなかったけど、今思い返すと、あの目立ちたがり屋は、やけに滝野に突っかかったり、変な質問をすることがよくあった。もしかしたら、そういうことだったのかもしれない。
 今度会ったら話のネタにしよう。

26: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:11:52.55 ID:TTAc4R6C0

 話を戻す。

 暗い顔をした滝野に、目立ちたがり屋はさらに続ける。

「ほら、みたろ? 中庭のカメが殺されてんの!」

 さすがにここまで直接言うと、何人かの生徒は目立ちたがり屋にあまり良い視線は向けず、私もそのひとりだった。

 滝野は入り口近くで立ち止まって、しばらく黙りこんだ後、ぽつりと何かを言った。

「お、おかにしくんが……」

 あまりにも勢いのなさすぎる声で、最後の方は聞き取れなかった。
 教室が息をひそめる。

 滝野は、スカートの裾をぎゅっと握ってから、もう一度言った。

「お……岡西くんが、怪しい……とおもう」

 私は、そんな馬鹿な、と思った。

 教室にいたほとんどの人が、それを聞いてから2秒ほど黙って、各自の頭の中で言葉を理解してから、それから一気に教室は騒がしくなった。

 滝野は少し焦って顔を上げていたけど、どうすることもできず、また俯いてその場に立ち止まっているだけだった。

 このタイミング、この状況で、おそらくこのクラスで最も中庭に行った回数のある滝野の証言は、教室を盛り上げるには十分な材料だった。
 私だって、たぶん、岡西のことをあまり知らなければ、同じように犯人は岡西だと思っただろう。

 そして、この考えうる限り最も悪いタイミングで、岡西は、教室に入ってきてしまった。

 扉が開いた瞬間、教室が音を忘れたように静まりかえる。
 あまりに突然静かになったものだから、私も少し驚いてしまった。

27: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:12:57.07 ID:TTAc4R6C0

 岡西は、少し驚いた様子を見せた後、いつも通りの調子で扉を閉めて、黙って自分の席に向かう……向かおうとしたところで、まだ入り口近くにいた滝野が、震える声で岡西を呼び止めた。

「……ね、ねぇ」

「……なに?」

 私はそこで、中学校に入って初めて岡西がクラスメイトと話しているのを見た。

 教室全体が、次に発せられる一語一句を聞き逃さまいとするように、じっと2人のことを見つめる。

 手に汗を握ってしまうような雰囲気で、私も、身体を教室の後ろへ向けて、ほかの生徒と同じように、静かに2人の方を見ていた。

「な、中庭の……かっ、カメは……」

 滝野はただでさえ落ち込んでいたのと、30人近くに一斉に視線を向けられていたので、緊張して震える声を絞るようにして、岡西に何かを尋ねようとしていた。

「……中庭が、どうかした?」

 岡西はたった今学校に来たようで、中庭でなにが起こったか知らないようだった。滝野は次に続ける言葉が見つからないようで、口の端をキュッと結んでもごもごとしている。

 じれったい雰囲気の中、誰かが滝野の代わりに聞かなければ、という空気が生まれ、目立ちたがり屋を含め、生徒たちは互いに視線を押し付けるように隣の人の顔を見ていた。

 岡西はなにがあったのか全く知らないので、ただその場に突っ立って困惑している。

28: ◆zsQdVcObeg 2017/02/10(金) 21:14:21.34 ID:TTAc4R6C0

 私はゆっくりと、ほかの人に悟られないように、視線を東田の方に動かした。
 未来人の席が視界に入ったけど、彼女はここにはいない。

 東田が視界に入ると、一瞬視線が合ったような気がして身が縮こまったが、すぐに気のせいだとわかった。
 薄紫は立ち上がり、教室の視線を集めてから、岡西に尋ねた。

「岡西くん、園芸部のクワ、最近使った?」

 会話のいきさつを見守るように、誰かがごくりと喉を鳴らす。

 岡西は一瞬、視線を右上に揺らしてから、それから、短く答えた。

「使ったけど」

 教室は爆発したように騒がしくなった。まるで火事でも起こったかのような喧騒。
 突然、祭りの中に放り込まれたような錯覚を覚えたのを覚えている。

 しばらく唖然としていた岡西も、周りの様子を受けて、よくない状況にいることに気づき、逃げるようにして教室を飛び出した。

 何人かがその後を追おうと扉に向かうと、まるで初めから入り口にいたかのように、ひょいと未来人が現れて、道をふさいだ。

 目立ちたがり屋が未来人の横をすり抜けて行こうとすると、未来人はぽつりと、

「先生、階段登ってきてるよ」

 所詮中学生である。

 その一言で、目立ちたがり屋たちは諦めて、東田の「みんな、席に着いておこう」という呼びかけで、先生が来る前には、全員が着席していた。

 先生は岡西とは鉢合わせしなかったようで、特に変わったことはなく、普通に朝の会を終わらせた。

「中庭には近づかないように」

 未来人の方を見ると、彼女は、頬杖をついて、窓から空を見上げていた。

31: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:31:23.30 ID:BcSldTJc0

 4時間目が終わっても、岡西は帰ってこなかった。
 何人かの先生は慌ただしくしていたけど、授業は普通に行わていた。案外、何があっても生活のリズムが変わることはないのだな、と感じた記憶がある。

 滝野の方は、1時間目が終わると、保健室に行って、そのまま早退していた。

 給食の準備時間、廊下から山田と中村に呼ばれたので、3人はこっそりと階段までいって、陰に隠れて話した(給食の準備時間は立ち上がってはいけないルールがあった)。

「岡西、まだ戻ってないのか」

「うん。そのまま帰ったのかもしれないけど」

「帰ってないよ」

 驚いて振り返ると、階段の手すりに未来人が座っていた。
 スカートの中が見えそうになって、中村と私は目をそらす。

「どうしてわかるの?」

 山田が尋ねると、未来人は表情を変えずに答えた。

「さっき、先生たちが話してたの聞いた」

 なら、まだどこかで寄り道しているか、学校にいるのか、どちらかだろう。

「そろそろ給食の準備できるよ」

 未来人はそう言うと、手すりから降りて、教室へ戻っていった。

 出歩いていたのが見つかってしまう。私たちは急いで教室に戻った。

 別れ際、私は山田と中村に、昼休みも話そう、と伝えておいた。2人は頷いた。

 教室に入って、未来人の方を見ると、彼女はまるで一度も立ち上がっていないかのように、その先に馴染んでいた。


32: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:32:01.72 ID:BcSldTJc0

 給食を食べ終えて、教室を出ようとすると、未来人はもういなかった。
 仕方がないので、隣に寄って山田と中村を呼んでから、3人で岡西を捜した。

 しばらく校舎をうろうろしていた私たちだけど、結果から言うと、岡西は屋上にいた。未来人も。

 尋ねてみると、岡西は不思議そうに、自分の首の後ろを撫でながら言った。

「とりあえず来てみたら、扉の前に鍵が置いてあった」

 未来人に、「岡西が来るの、わかってたの?」と聞くと、彼女は

「落としちゃっただけ」

 と、空を見上げていた。

 まあ、そのときは、細かいことはどうでもよかった。
 岡西の方は、大体の雰囲気と、中庭に見えたカメの死骸と、未来人の話で、自分の置かれている状況は理解しているらしい。

「つまり、おれが犯人って疑われてるんだろ」

 岡西はやっていない、とのことだった。

 証拠となってしまったクワについて聞いてみると、それは、昨日の放課後に、畑(田舎の中学校なので、敷地内に先生が管理している畑があった)の手伝いを頼まれたらしく、その時使った、という意味だったらしい。

 どうして岡西が疑われたのだろう。

 ……自信はなかったけど、そういえば昨日、岡西に写真を見せてもらいに行くとき、滝野とすれ違っていた気がする。


33: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:32:34.47 ID:BcSldTJc0

「なら、犯人はあえてクワを使ったのかな?」

 山田がそんなことを言うので、私たち3人は、首を傾げて山田の方を見た。

「ほら、岡西がクワ使った後だったら、指紋とか残るんじゃない?」

 そうかもしれない。犯人は手袋とかすればいいんだし。
 未来人の方に視線を向けると、彼女は私たちとは反対を向いていたけど、話は聞いているようで、

「それに、岡西がクワ使ってた、って話だけが広まれば、岡西が犯人だ、ってウワサも広がりやすいしね」

 なら、犯人は岡西が昨日クワを使ったことを知っていた、ということになる。

 それに加え、犯人は昨夜あたりに、用水路を塞き止めていて、その上でカメの逃げ場所を狭くしてからクワで殺している。
 ある程度の計画性がある割に、目的がさっぱりわからなかった。

 前日のメダカの件も、頭の中にはちらついていた。

 私たちは4人で、頭を寄せて考えていた……けど、結局、それらしい答えは見つからなかった。
 4人もいたので文殊を超えていたはずなのだけれど、それでも犯人の目星は着かなかった。

 そして、気持ちの悪いことに、この事件も、犯人がわからないまま、うやむやになってしまったのだ。

 もちろん、生徒たちもメダカの時とは比べ物にならないほど興奮して犯人を捜していたが、少しでも先生たちにそのことが見つかると、今考えてもやりすぎなほどのお叱りを受けていたので、
 次第に犯人捜しはタブーとする空気が生まれていた。

 さらに、自然教室(林間学校のようなもの)が近づいてきていたので、先生たちはその準備や話し合いの時間を多く設けて、生徒の興味の方向を自然教室の方へずらしたのだ。

 つまり、学校側は、中庭の事件を揉み消した。

 ほとんどの生徒は、自然教室までには興味を失っていたように思うけど、岡西を含め私たち数人は、モヤモヤとしたモノを抱えたまま、自然教室までの数日を過ごした。

34: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:33:08.69 ID:BcSldTJc0

 中庭の事件から数週間後、私たちはバスに乗って、となりの県の孤島へ自然教室に向かった。

 あんな事件があってもやもやしてたとはいえ、しばらく時間も経っていたので、当日くらいまでには、私は案外、楽しみにしていた記憶がある。
 子供は切り替えが早い。

 自然教室は、基本的に4人ほどの班に別れて行動することになっている。
 私の班は、滝野と、東田と、村田(普通の女子)と、それから私だった。
 クジで決まったので、未来人と同じ班になれなかったのが、少し残念だった。

 バスで港に着いて、それから船に乗って、孤島に移動する。東田が「船の中は自由行動だったよね」と言っていたので、私は未来人を探すことにした。

 滝野は、たしか自由行動になってすぐに、展望デッキに移動して外の空気を吸っていた気がする。

 船は、下の方に車なんかを停めるスペースがあって、その上に客先や展望デッキがある、という造りになっていた。
 私は未来人を探したけど、客席はもちろん、展望デッキや甲板にもいない。海の潮のにおいが濃かったので(群青に似ていて紛らわしい)、いくら深呼吸しても居場所はわからなかった。

 おかしいなと思いながら、展望デッキのあたりをうろうろしていると、下に続く階段が見えた。

 さっき登ってきた階段。下には業者のトラックが積まれていたはず。

 本当は降りてはいけなかったけど、私はこの下に未来人がいると確信して、周りに見つからないように駆け足で階段を降りた。

 下は思っていた以上に広くて、ちょっとした体育館のようだった。
 そして案の定、未来人はそこにいた。


35: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:33:53.00 ID:BcSldTJc0

「なにしてるの」

 波とエンジンの音がよく響いていたので、少し声を張って私がそう言うと、未来人は振り返らないまま、

「さんぽ」

 と答えた。

「ここ、本当はきちゃいけないんだって」

「ふぅん」

 特に気にしている様子はなかった。

 私は未来人の隣に立って、そのそばの小窓から海を眺めた。

 展望デッキから見降ろすより、何メートルも近いところに見える海は、落ちたら助からないだろうな、と思うような色をしていた。

 もし船が揺れて落ちてしまったら、と想像すると、おへそのあたりの力が抜ける。

「携帯、落とさないようにね」

 不意に未来人がそんなことを言うので、私は「携帯?」と尋ね返した。
 自然教室も学校行事の1つなので、そんなものは持ってきてはいけないはず。というか持ってきていない。

 ……そう思って、少し不安に思ってポケットを探ってみると、
 ふつうにスマホが出てきた。

 しまった。朝、準備してる時、急いでて入れっぱなしだった。

 今考えると大したことないけど、このときはかなり焦った。中学生にとって不要物を持ってくることは、かなり重大なルール違反だったのだ(岡西はその点、すこし変わっていた)。

 未来人は「そのまま持っとけば?」と軽く流していたけど、私はしばらく顔を真っ青にして悩んだ後、先生に預けておくことにした。

「持っておいたほうが、いいと思うけどな」

 このときは、その言葉は耳に入らなかったけど、後から考えるれば、そのアドバイスは聞いておいたほうが良かったのかもしれない。

 私はすぐに客席に戻って、先生に事情を話してからスマホを預かってもらった。先生は変な顔をしていた。

 席に戻ると、東田が「災難だったね」と、気さくに笑いかけてきた。私は「まったく」と返事をした。

 滝野は、まだ展望デッキにいた。


36: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:34:24.70 ID:BcSldTJc0

 初日の予定は、荷物を事務所に預けてから、班ごとに分かれて近くの林道でウォークラリーをして、それからカレー作りだった。

 孤島に着くと、その日が曇っていたせいかもしれないけど、思っていたよりも鬱蒼とした印象を受けた。1本1本の木が大きい。
 小さな山の集まりのような島だった。

 猫が多かった覚えがある。

 私は少しわくわくして、スマホを持ってきてしまっていたショックなんてすぐに忘れてしまっていた。未来人はそんな私を見て、なんとも言えない顔をしていた。

 荷物を預け、少し広いところで集合して、先生の長い話を聞き終えてから、1グループづつ、順番にウォークラリーを始める。
 ちなみに、長さは同じだけど、コースは各クラスごとに違っていた。時間の節約らしい。

 出発する前、東田が荷物の中に忘れ物をしたと言って、少し場を離れてしまったので、私たちのグループは出発の順番を少し後ろに回してもらった。
 私は村田とおしゃべりをしていたので、特に暇ではなかった。滝野はたまに話を振ると、返事をするくらいだった。

 少し出発が遅れてしまったウォークラリーだったけど、それなにり楽しめた。村田と東田もそこそこ話せたので、会話がなくて気まずい、なんてこともなかった。

 あえて問題を挙げるとすると、チェックポイントでプリントに印をつける時に、滝野のシャーペンがなくなっていたことに気付いたけど、それは私のシャーペンを貸したのでなんとかなった。
 それ以外は、つつがなくウォークラリを終えることができた。……気がする。

 他のメンバーがどう感じていたのかは知らない。

 夕方はカレー作りだった。


37: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:34:57.77 ID:BcSldTJc0

 実を言うと、この時起こっていたことを、私はほとんど覚えていない。
 後から他の人に話を聞いてみると、実はこの時、ある人物が露骨に怪しい行動をしていたそうなのだけれど、私は周りに注意を向けていなかった。

 カレー作りは、4人班が2班づつ合同で行った。この時の班は未来人も同じだったので、班が決まった時は喜んだものだけど、
 実際に作業をしていると、意外なことに、彼女はほとんど役に立たなかった。

 薪木がなくなってしまったとき、嬉しそうに「松の葉を火に焚べると、すごい音するんだよ」と、胸いっぱいに抱えた松の葉やら松ぼっくりを炎に放り込んだので、
 爆発したようにバチバチと炎が燃え上がって、私は寿命が縮むような思いをしながら料理をしていた。

 私は炊飯係だった。
 炊飯器ではなく、わざわざ鍋を使って米を炊く係。

 そのせいで火力に敏感だったので、余計に未来人の行動には肝を冷やされたのかもしれない。

 ちなみに、出来上がったのはお焦げ(と言えば聞こえはいいが、実際はほとんど炭)たっぷりの、決してホカホカという表現が似合うことはないご飯だった。
 班のメンバーに申し訳なかったけど、どこの班もそんなもんだったし、今思えば、それはそれで楽しかった記憶がある。

 でも、この時は、もう二度と鍋でご飯なんて炊かない、と誓っていた。

 ちなみに、未来人と村田が切った人参とじゃがいもは、普通に美味しかった。どちらの切り方が上手だったのかはわからない。

 ……と、今思い出しても、あの人物の行動は、ほとんど記憶になかった。

 当たり前だ。そもそも炊飯係は私1人ではなかったのだ。
 もう1人いたはずなのに、あのとき炊事場にいた記憶がほぼない。
 後から他の人に話を聞くと、何か忘れ物やら先生に用事やらでかなり場を離れていたらしいのだけど、
 私の覚えている限り、ソイツはまったく調理に参加していなかった。

 そして、その日の夜、ソイツは行動を起こした。


38: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:35:31.30 ID:BcSldTJc0

 ソイツが行動を起こす、少し前。

 私たちはカレーを食べ終えて、食器を洗い終えて、班ごとに歩いて部屋に戻っていた。

 道中、東田が滝野を呼び止めて、何かを渡していた。
 すぐに東田はどこかへ走って行ったので、私は滝野のそばに行って、何を受け取ったのか尋ねた。

「これ……さっき、東田君が拾ってくれた、って」

 そう言いながら、滝野は少し遠慮がちにシャーペンを見せてきた。さっきなくしていたシャーペン。

 私はそれを見て、忘れていた匂いを思い出した。
 そしてすぐに忘れようとした。

 幸い、服に炭の匂いが残っていたので、それで誤魔化すことはできたけど、間違いなく、あの匂いは、この間、におったモノと同じだった。

 よかったね、と、私はなるべく明るい口調で言えるように努めて言って、駆け足でその場を離れた。

 すぐ近くで、歩いていた未来人に出会う。

「真っ青だよ」

 言われてはじめて、私は自分が息を止めていたことに気づいた。
 あれ以上、認めたくなかったのだ。あの匂いが、滝野のシャーペンから、漂ってきた事。

 そして予想していたことが当たるのが、怖かった。腑に落ちるのが恐ろしかった。

「なにか、隠してるね」

 未来人は、見透かすように私の顔を覗き込んでくる。

「……別に」

 私は、できる限り目をそらして、それから少し早足で林道を歩いた。
 未来人も付いてくるかと思っていると、足音がしない。


39: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:36:06.17 ID:BcSldTJc0

 気になって振り返ると、彼女は、林道の横道の奥を眺めて、立ち止まっていた。

「なにしてるの」

 私が呼びかけると、彼女は目線を動かさずに質問を返してきた。

「なに、あれ」

 未来人の隣まで歩く。
 群青色の香り……に混ざって、嫌な匂いがした。

 彼女の視線の奥で、カラスが飛び去る音と鳴き声がした。3、4羽くらいの影が視界のすみに映る。

 私は顔をしかめて、奥に目をやる。暗くなってきていたので、よく見えない。
 立ち止まる未来人の横を通り過ぎて、奥へ進んだ。

 匂いは濃くなる。

 私はソレをはっきり視界に入れると、思わず後ずさりながら、変な声が出た。

 子猫の死骸。

 辛うじてわかる、耳と尻尾の欠片。胴体は、原型をとどめていなかった。
 脚は4本ともどこかになくなっていた。
 突き刺したような傷跡が、眼が入っていたであろう空洞に見て取れる。

 言葉では、こんなものが存在する事を知っていたけど、実物は、どんな表現よりも生々しかった。

 私は、今食べてきたものをその場に吐き出した。未来人がやってきて、背中をさすってくれる。

 少しその場に佇んで、それから急いでその場を離れた。未来人がどこからかペットボトルの水を持ってきてくれたので、それを飲んで、少し落ち着いた。

 思い出す。

 さっきの子猫の匂い。血の匂い。赤銅色の、嫌な匂い。

 滝野のシャーペンと、同じ匂いがした。


40: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:37:23.09 ID:BcSldTJc0

 それから2時間くらい後。

 私たちは風呂の時間という名のカラスの行水を終えて、寝る準備を整えていた。

 体調の方は特に崩れることはなくて、私はお湯であの匂いを忘れて、なるべく思い出さないように努力をしていた。

 どうせ明日の朝にはシワまで揃えて畳まないといけないんだから、と、その日は枕投げは開催されなかった覚えがある。助かった。

 先生の点呼を終えて、消灯まであと5分、ということろで、私たちの部屋の扉を、誰かが叩いた。

「先生かな?」

 扉に一番近かった私が確かめに行くと、そこには、先生ではなく、東田が立っていた。

「ちょっと、用事があるんだけど」

 消灯まであと数分。
 けど、東田は「布団に潜ってる体で周りが言えば、誤魔化せるよ」と、変に確信を持った口調で言っていたものなので、私は何故か東田の誘いにのった。

 靴を残しておかないと見つかるので、室内用のスリッパを履いたまま、外に出た。

 こっちにきて、という東田に、どうしてか疑問も持たずについていく。この間に話はしなかった。

 寝室のある建物から少し離れて、灯りの消えかけている受付の近くを通ると、誰か人の気配がした。

 私たちはとっさにしゃがみこんだけど、「みてるよ」と、未来人の声がしたので、私は普通に立ち上がった。

 彼女は自動販売機の前でペットボトルの水を持っていた。

「何してるんだい?」

 東田が尋ねると、未来人はそっけなく「先生のところに用事があって」と答えた。
 なんで水が要るんだろう。

 彼女はさらっと髪をなびかせると、どこかへ消えていった。

 東田は「行こう」と私を促して、さらに暗い林道の方へと進んでいった。
 私はそれについていった。

 いつ思い返しても、あのときの自分の判断基準が、理解できない。


41: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:38:58.38 ID:BcSldTJc0

 しばらく黙って歩く。耳に入るのは2人分の砂利を踏む音だけで、匂うのは薄紫だけ。
 明かりが届かないところまで来ると、東田は突然、私に話しかけてきた。

「滝野さんは賢いよね」

 私は「そうかな」と返事をした。

「そうだよ。だって、一瞬で答えを言っちゃうんだもん」

 私はたぶん、この時点で、我に返っていた。今何をしているのか。どうしてついてきてしまったのか。

 でも私は、東田に逆らって引き返すことはできなかった。

 東田の右手は、いつの間にか、ポケットの中の何かを握っていた。

「滝野さんは賢いから、盗んだことも、すぐ気づくと思ったんだよ」

 私はさらりと、とんでも無いことを聞き始めてしまっていることに気がついた。

「でも気づかないもんだから、つい、使っちゃったよ。穴開けるのに」

 私は真っ暗洞窟のような林道を、東田に続いて歩く。誰かすぐそばにいるのに、まるで1人で歩いているような恐怖だった。
 後ろから襲いかかられるのではないか。前から襲いかかられるのではないか。

 周りを確認したかったけど、私は数歩手前を歩く東田から、目線を話すことは許されていない。

「僕はね、いつも校舎から池を見下ろすとき、カメが花に見えてしょうがなかった」

 私は話を聞く。

「そうなんだ」

「君も同じだろう」

「まあ、そうかも」

 平気な振りを装っていたけど、声は震えていたし、両手はものを掴めるような状態ではなかった。

「でも、緑色の花なんて、嫌じゃない?」

「……どうして?」

 私は少しづつ、歩調を緩めていた。早く歩きたがる脚を、気持ち鎖でくくりつけて、ゆっくりと東田との距離を広げようと努める。

「葉緑体があって、光合成をするのは葉と茎だけで十分だよ。わざわざ花弁まで緑になる必要はない。気持ち悪い」

 私は思い返す。屋上から見降ろす池。緑の芝生に、深緑の濃い池。

 花のように点々と日に当たるカメ。

「僕は赤い花が好きなんだ」

 東田が歩くペースが少し遅くなった。

 そう感じただけなのに、私の心臓は破裂しそうなほど過剰に脈打っていた。必死で歩調を合わせ直す。

 次第に、あの匂いが漂ってきていた。
 

42: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:39:30.81 ID:BcSldTJc0

「猫は好き?」

 東田は立ち止まった。そして迷いなく、半身で振り返った。

「ま、まあまあ」

「そうなんだ。僕は大好きだ」

 東田の身体は、横道の奥へと向いていた。

 私はこの激しい動悸が外に漏れていないことを祈りながら、必死で鼻で息をすまい、と口から空気を吸っていた。
 それでも僅かににおう。赤銅色。

「君は、好きな人はいるかい?」

 東田は、こんな場所にいるのに、嫌に落ち着き払っていた。子供のくせに、大人のような雰囲気を漂わせている。

「まだ、わかんない」

 私は、言葉を口で話すのがこんなにも難しくなることがあるのだ、ということを知った。
 心臓はマラソンの後のように運動していて、鎖骨に嫌な汗が流れるのを感じる。

「よかった。なら、ここだけの話なんだけど」

 暗闇に目が慣れてきて、そのせいで余計に、東田の右手が気になる。ポケットの中で何かを握り直している。

「僕は同性愛者なんだ。みんながたまにネタにして笑ってる、ホモってやつ」

 私には、少し自虐するように笑う東田を、滑稽だとか、見てて寒いだとか、そんな風に考える余裕はなかった。
 ただひたすらに、呼吸を整えて、東田が「帰ろうか」と言うのを待っていた。

 でももう、空気でわかる。

 東田は、この道を、1人で帰るつもりだ。


43: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:41:57.06 ID:BcSldTJc0
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44: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:42:31.68 ID:BcSldTJc0

 逃げないと。

 混線した頭がやっと導き出した答えを、私は震える膝に頼み込んで、やっとのことで振り返ると、後ろから低い声で、

「動くな」

 私はもう動けなかった。

 東田は、ゆっくりと、私の正面に回り込むと、壊れ物を触るみたいに、私の両肩に手のひらを乗せた。

 私の膝は、今の気持ちに反してか即してか、忙しそうに笑っていて、東田が力を加えると、あっけなくその役割を忘れて、折れてしまった。

 膝をついてしまった私を、東田はゆっくりと、気持ち悪いほどに優しく押し倒す。

 私は背中に冷たい砂利を感じながら、僅かに動く両手で東田の腕を掴むが、それに対して、東田は嬉しそうな顔をしただけだった。

 こんなに嬉しそうな東田を、私は見たことがない。

 東田はそのまま、私のへそのあたりに馬乗りになる。
 人の体温がここまで恐ろしく感じたのは、このときが初めてだった。

「こんなに楽しいのは初めてだよ」

 そのとき、私は何かを東田に言ったような気がしたのだけれど、何を言ったのか、自分なのによく覚えていない。

 ただ、その後すぐ、嬉しそうな顔の東田に、前髪を掴まれて、そのまま後ろ頭を砂利道に叩きつけられた。

 悲鳴は出なかった。歯を食いしばって、喉から変な息が漏れただけだった。

 東田は左のポケットから、大事そうに、刃物を取り出す。



45: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:43:04.42 ID:BcSldTJc0

「キャンプ用のナイフでも、人って切れるのかなぁ? とりあえず、猫の肉は切れたから、たぶんいけると思うんだけど」

 子供が持つには刃渡が長すぎるナイフは、僅かに雲の隙間から漏れている月の光を、その身に独占するように、東田の左手の中で、過剰に輝いていた。

 その左手は、私の眉間の真上で、垂直にナイフを構えた。

 右手は、私の前髪を、抜くような勢いで掴んでいる。

 東田の汗が、顎を伝って、私のお腹に落ちている。
 私は、自分の汗が首を流れるのを、不思議なくらいはっきりと感じていた。

「目を閉じたら、これを真下に落とす」

 楽しそうな声が、私にそう告げると、私の脳は、瞬きをしないことのためだけに働いた。

 目が乾く。楽しそうな顔が映る。尖った刃物が映る。月明かりはナイフの味方だ。

 私の先端恐怖症は、これが原因だった。

 たぶん、2時間くらいはそうしていたと思う。けど、その間に、呼吸は、3回ほど、引きつった深呼吸をしただけだった。
 過ぎていたのは、ほんの数秒だったのだろう。

 目は閉じていないのに、東田の左手がゆっくりと降りてくる。

 怖い。怖い。でも目を閉じてはいけない。

 乾いた涙が出てくる。私は一瞬目を閉じてしまう。

 しまった。

 目を開けると、嬉しそうに笑う東田が、大きく左手を振り上げているところだった。

 そして次に聞こえたのは、

「ストップ」

 ……群青色の香りがした。


46: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:43:39.03 ID:BcSldTJc0

 私は涙を流した。よく思い出せないけど、目は閉じていたと思う。

「……はぁあ?」

 東田の低い声が聞こえる。

 私に馬乗りになったまま、ナイフを私の腰の横あたりに落とした。
 長い溜息が聞こえる。

 それを聞いてか聞かずか、未来人は、東田にスマホの画面を見せていた。

「あと、これ、黄緑のボタン押せば、警察につながるんだけど」

 私のスマホだった。

「とりあえず、降りてもらえるかな。人と話すときに、馬乗りは良くないよ」

 未来人はいつになく饒舌に言葉を使って、東田を追い詰めていた。

 東田は諦めたように笑うと、一度、ナイフを手に取り未来人に向けて突き出したけど、彼女は綿毛を避けるように体を反らして、
 なんなくそのナイフを奪い取った。

「次やったら、東田の親が警察行きだよ」

 東田は諦めたように、私の真上に立ち上がった。

 私は未来人が来てくれたことに安心しきって、全身でため息をついた。
 群青の香りに、全力で安心した。

 これまで恐怖の石の塊だった私は、未来人の声を聞いて、群青を香って、異常なほどに興奮したまま、気が大きくなった。

 寝転がったまま、馬乗りになられていた部分に風を感じて、何度も瞬きをして、
 それから、何を思ったか、渾身の力を込めて、
 東田の股間を蹴りつけた。

 その後のことは話したくない。


47: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:44:13.48 ID:BcSldTJc0

 翌日と翌々日は、恐ろしいほどに、普通に過ぎていった。

 未来人も東田も、何事もなかったかのように自然教室を楽しんでいて、私は、気でも狂ったのか、それともあれは夢だったのか、本気で自分の心配をした。

 未来人にそれとなく聞いてみると、

「あんなこと忘れられるの?」

 と、バカにするように言われた。

 自然教室を終えると、私たちは普段の生活に戻った。

 ただ、1つ変わったのは、東田は、あれ以降、学校には来なかった。
 親の仕事の都合で、遠くへ引っ越したらしい。そう先生に伝えられた。

 未来人は結局、警察には電話しなかったそうで、東田がどうなったのかは知らないようだった。

 山田や中村、それから岡西にも、屋上でこの話をした。
 山田は本気で怒ってくれて、中村と岡西は東田の逸脱っぷりに、腕を組んで唸っていた。

 今考えると、あの話を一瞬で信じたあの3人は、やっぱり少し変わっている。

 東田があの後どうしているのか、少なくとも今、私は知らない。

 それから、滝野について。

 自然教室からしばらく経って、岡西は、滝野の元に謝りに行っていた。

「変に疑わせるような真似してたなら、ごめん」

 滝野は、私から東田の話を少し聞いていたので(疑ってしまったのだし、多少は関係があったので)、岡西に、

「わたしこそ、本当にごめんなさい」

 と、きちんと謝っていた。

 滝野と岡西は話してみると気が合ったようで、それから、部活がないもの同士、放課後にちょくちょく話しているのを見かけるようになった。

 中庭のカメも、残ったカメたちは今も元気にしている。


48: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:44:53.19 ID:BcSldTJc0

「なにしてるの」

「なにもしてない」

 その日も、空はよく晴れていて、屋上は、ちょうどいい暖かさになっていた。

 私は鉄のはしごで塔屋に登ってから、給水タンクの影に座り込んで、中庭を眺めた。

 未来人の方を見ると、日傘を立てかけて、ハンカチを敷いた上にちょこんと座って、空を見上げていた。

「今日はあんまり眩しくないね」

 私がそう言うと、未来人は、

「そうかな」

 と、呟くように答えた。

 青く見えてしまうほどに細く黒いその髪は、屋上の風に吹かれて、不規則的に美しく揺れていた。

 群青色の香り。

「ねぇ」

 私は尋ねる。

「どうしてあの時、来てくれたの?」

 少し間をおいて、未来人は振り返った。

「未来が見えるよ」

 座ったまま身体をこちらに向けて、彼女は言い直した。

「私には、少しだけ未来が見える」

「うそだ」

「ほんとだよ」

 未来は見えないにしても、すごく勘がいいとか、いろんな情報から予測してるとか、そう言う才能はあるんだろうなぁ、と、私は漠然と考えていた。

「次、中村が来るよ」

 未来人がそう言うので、私は未来人の隣まで行って、2人で、塔屋の上から扉をのぞき込むような体制になった。

 確かに、足音が聞こえる。

 扉の前で、2回、足踏みが聞こえる。

 未来人が足を引っ掛けてぶら下がって、鍵を開けてから、曲芸師のような動きで元に戻る。

 扉が開くと、出てきたのは、山田だった。

「山田じゃん」

「……未来は不規則に分岐しつつある」

「え、な、なにが?」

 山田は困ったような顔をしていた。

 私は少し笑った。


49: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:45:48.24 ID:BcSldTJc0

「私は未来から来た」

 自称未来人の彼女は、私によくそう話していた。

 けど、これといって未来の道具も見せてくれないし、それらしい事といえば、せいぜいマジックが上手なくらい。

 けど、突然ふらっと消えたり、かと思えばふらっと現れたりもするし、不思議な雰囲気は纏っている。

 彼女は?みどころがなかった。

 深く透き通った群青の香りがして、こんなにいい香りのする人を、私は他に知らない。

 そんな彼女と出会ってほぼ1年、私は、これまで知り合った人の、どれとも似つかない、不思議な印象を彼女に抱いていた。

 これから先、まだ何年も関わっていくことになるのは、中1のこの時はまだ考えてもなかったけど、去年から気持ちは変わらなくて、
 できるなら、もう少しそばで見ていたないな、という気はしていた。

 そして、可能であるならば、何か、お礼ができればいいな、なんてことも思っていた。並大抵のことではお礼にはならないようなことをしてもらった。助けてもらった。

 少なくとも、この恩を返すまでは、私は彼女のそばは離れまい、と決めていた。

「ねえ」

 私は声をかける。

「宇宙人っていると思う?」

「うん」

 彼女は呟くように答える。

「なら、未来人は」

 くだらない会話だけど、こんな時間が、私は好きだった。

「ここにいるよ」

「へぇ」

 私は笑った。

 心なしか、彼女も、少し笑っていたような気がする。

50: ◆zsQdVcObeg 2017/02/12(日) 00:47:45.38 ID:BcSldTJc0
ひとまずおしまい。

読んでくださりありがとうございました。
またいつか続き書きます。

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